hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

人、花を見 花、笑う

北茨城、花園の友人ご一家の、娘さんの方が、大学や研究について関心を寄せてくださり、つくばまで訪ねてきてくださったので、二日間、いろいろとご案内した。現在、アメリカに留学されているが、夏休みで帰国しているところだ。9月のアメリカの新学期に間に合うように渡米する間際なのに、訪問してくださることが決まり、楽しみにしていた。
 アメリカでは、ヒューマンエコロジーを掲げる大学に所属されている。この大学では、エコロジーに対して、科学的な立場から研究を進めるだけでなく、文系的なアプローチも含めた学際的な研究を進めているそうだ。ご本人は、本や印刷術、出版流通や読者、図書館、そして文学を中心とした文化の研究に関心があり、図書館通いと読書で鍛え上げているので、(若いのに)しっかりと考え、それを伝えようとする力がある。

いらしている間、大学見学や、図書館・書店・古書店探訪など、案内したい場所が目白押し。そして、研究室関連の人々や、知人・友人の中でも「my best people」と呼べる方々と、交流会や歓迎会で様々な出会いや語らいをするのが中心となった。
 
この娘さん、一目見たとき「咲いたばかりの純白の芙蓉の花のよう」と思った。ぱっと明るい、光のような力が溢れ出ている。お願いして、交流会・歓迎会にいらしてくださった人々も、各々しっかりとした考えをもってユニークな道を歩んでいるだけでなく、暖かく気持ちのよい方ばかり。本や出版の話から、読書論・文学論・文化研究・「研究」論、エコロジーやフェミニズム、ベジタリアニズム、自然保護や動物救護の話まで、多岐にわたる話題の花が咲いた。(話題に添えたお茶菓子や食事も、彼女のお母様の ―― ご両親は、からだをつくる元となる「食」を大切に考え、いろいろと勉強され経験を重ね、畑で有機野菜をつくられている ―― 手作りケーキやスコーン、そして自然食レストランの心尽くしのパーティ料理と、おいしかったよ!)

二日間に、いろいろな予定を詰め込んだので、若いエネルギーと一緒に“何とか”駆け足で走り抜けた感じがする。だけど、沢山の新しいことを知り、沢山のことを学び、そのことについて、今も反芻して考えさせられている。(研究上のシビアなことについても!)
 エネルギー出し切りながら走るのもいいね。良いと信じることに純粋に向かっている人々に逢うと、勇気が出るね ―― と感じた二日間だった。


二人だけ、この二日間にちょっと不満だった御方が居る ―― ごめんね、小露鈴とgaeaちゃん。人間の、魅力溢れるお客様がいらっしゃると、わたしの意識はそのお客様の方に向かってしまい、小鳥たちと人間との関係性に支障をきたしてしまうらしいのだ。(断じて、お客様のせいではないけど)

どうもわたしには、<小鳥に向かうモード>と<人間に向かうモード>があるらしい。そして、各モードの違いによって、<小鳥たちとつながるチャネル>と<人間と話すためのチャネル>のいずれか一方が開いている。両方のチャネルを多層的に開いておければいいのだが、一点集中型で不器用なわたしにはそれができない。因みに、バードウォッチングも一人でなければだめ。どんなに相性のいい(人間の)仲間でも、人間と話す状況にあるときは、野鳥は寄ってこないし、野鳥の声をちゃんと聴いている気がしない。野鳥の声は、風の音や木の葉の音、清流の音以外は《・・・静寂・・・》という中で、聴かなければだめなのだ。
 反対に、野鳥たちを静かに穏やかに眺めていたり、お気に入りの樹木を長いこと見上げていて、急に“人間界”に入ると、人間が“濃すぎる”と感じる。そして何だか、自分のからだが吹き飛んでしまうか、ジクソーパズルのようにばらばらになってしまうかのように感じるのだ。そんな経験ないですか?

同じ空間にいて同じ行動をしていても、どこに意識を置いているかによって、どこにチャネルがあるかによって、どんな声が聴こえてくるかは随分違ってくる。特定の相手(人)と話しているときだって、その人が発言した“言葉”に対応するか、音声の流れ全体に意識を置くか、その人のからだや“内面”にも耳を澄ますか、によって、対話は全然違ったものになる。

誰と、どんなモードで語り合うかは、とても重要なことだと思うので、いつも気付いて、気をつけなきゃ。

観察している限り、うちの文鳥たちは相手のモードの変化にとても敏感だ。
 特に、小露鈴。どんな繊細な変化も捉えているように、わたしには思える。わたしの向き合い方、話し掛け方に、ちょっとでも“裏の面”(= 彼女に対して、全身全霊で純粋に向き合っていない面 ―― 「ごまかす」ことはあまりしたことはないけれど、「テキトーに相手してしまう」ときなど)があれば、絶対に見逃さない(ように見える)。
 文鳥たちも、<リアルモード><遊びのモード>など、幾つかのモードがあるようだ。そして、彼らのモードも変化している。小鳥の“目”を中心に、彼らのからだつきを細かに観察していると、モードが切り替わっているのが感じ取れる気がする。
 しかし、たいていの場合、相手の変化に対してすばやく繊細に見分けることに関する限り、人間は小鳥にかなわなのではないか。

それで ―― わたしはこの二日間、<人間のお客様歓迎モード>だったのですね。自分で気付かなかったけど、小露鈴に教えられました。寸分の隙さえあれば、<こっち向け、こっち向け>コールで(切羽詰った鳴き方)、部屋(鳥かご)の扉をガシャンガシャンとそれはそれはうるさく鳴らし続け、お出しするとわたしにしがみついて怒っていたのでした。gaeaちゃんもべったりとくっついたまま、しがみついて絶対に絶対に離れないのでした。(ごめんなさい。これには困りました。お客様も、失礼しました)

綺麗な小露鈴
「綺麗な小露鈴」
(小露鈴に対して、直接ではないかもしれないけれど、
お客様のやんわりコメントは、「綺麗な子ほど、きついって
言いますよね?」)

<人間同士が向き合うモード>においては、何処を見ても花が咲き開いたような幸せな時間でした。ありがとうございます。(このブログのタイトルは、公案からです)
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「ちょっと気に入らない!」 ~小鳥のきもち~

8月17日のブログにある「嘴拭き」について読み、たまたまお店で見かけた九官鳥に向き合ってあげると、九官鳥が寄ってきてくれて嘴を拭いたので、そのまましばらく声をかけてあげた、と報告してくれた方がいて嬉しかった。その九官鳥は淋しくて、この方を怖がるのではなく、相手になってくれたのが嬉しかったのだと思う。鳥の言葉を少しでもわかると、鳥も人も、ほのぼのとコミュニケーションできるじゃないですか。

8月25日の「Ladies, Speak Out! I.」で、鳴き声に注目したが、小鳥の声を理解しようとするときは、前後の脈絡やその子(鳥)の習慣、その子が人とどういう関係を結んでいるかを確かめて、鳴き声(鳴き方、音色、ピッチ、強弱、等)と関係付けるのがコツだと思う。
 そして、対話のために、鳴き声と同程度、時にはそれ以上に大切なのが、小鳥がそのときどういう身振りやしぐさをしているかだと思う。これはきっと、あらゆる動物と対話するときの共通原則ですね。

身振りやしぐさに、からだつきや目、空間における相手との距離、相手への接近・接触など、いわゆる「言語以外のもの」を通してのやりとりを加えて、こうしたことによって伝わるコミュニケーションを「非言語コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)」という。
 「異種間コミュニケーション」では、人以外の動物がヒト言語を話すことは(非常に特殊なケースを除き)稀であり、この研究はすなわち非言語コミュニケーションの研究でもあるわけですね。(動物に、ヒト言語を教え込ませること以外の「異種間コミュニケーション」を認めない向きもありますが)

小鳥と対話する場合、鳴き声以外に、鍵となるのは・・・
多分 ―― いや、絶対 ―― 一番の鍵となるのは、小鳥の目!! 人と同じで、「目は口ほどにものを言う」??? 
 全くの私見の段階ですが、小鳥の目を見ると、その子の“意思”というか、何かをしようとする“強さ”がはっきりと分かるし、優しさや穏やかさ、そして脅えや不安・不信なども、汲み取れるような気がする。
 ただし、これを実際に“客観的に”示すのは、恐ろしく困難だ。人間における非言語コミュニケーションの研究でも、「眼力の強さ」をどう測定するかというと、至難というか今のところ不可能らしい。人間でも、目のコミュニケーションでは、視線の回数とか、視線を向ける時間とか、瞬きとか、アイコンタクトとか、が研究の中心となっている。あと、瞳孔の拡大についての研究もあるけれど、これもまた、研究するのが難しいことは、想像しただけで分かる。

今のところ、小鳥のノンバーバルなメッセージに関して一般的に言えることとなると、非常に大雑把なことになってしまう。

『ペット49種とコミュニケーションできる本』という“えっ?! 49種も、そんなに簡単にコミュニケーションできちゃって、いいの!?!”な本がある。この本の「手乗り文鳥 慣れるほど感情も高度になる」という項に、文鳥の<羽>と<鳴き声>と<しぐさ>を通してのメッセージの読み取り方が解説されている。

文鳥は何かを伝えようとするとき、鳴き声だけでなく、いろいろな動きで気持ちを表現します。とくに手のりになったものは人間に対する愛情が深く、飼い主の恋人に嫉妬して、かみついたりすることもあります。(『ペット49種とコミュニケーションできる本』 p.120)

「愛しているよ」(繁殖期)は、オスがぴょんぴょんと飛び跳ねて、メスの気をひいている
「あっぢー」(あつい)は、羽をたたんで、スマートな体つきに
「なんだよっ!」(嫉妬/きらい/こわい)は、嫉妬、恐怖、嫌悪など、気に入らないことがあると、かむことも
「ここから出して!」(逃げ出したい)は、ケージの戸をガタガタと音を立ててゆする
「お水ちょーだい」は、羽をふくらませたまま、小刻みに飛び回る

え??? この五つだけ? ―― まあ、仕方がないだろう。49種も解説しているんだから。それに、個々の文鳥の非言語メッセージがどれだけ豊かであっても、一般化できるとしたら、まあ、この程度? (嘴拭きがないのは、残念だけど)

それに、この五つの非言語の語彙だって、細かく見なければ、そうだと断定するのも難しい。
 「暑い」というのは、暑いと羽をたたむ習性なので、これはメッセージといえるかな?
「水がほしい」は ―― わたしは鳥さんを“渇きにさらす”ことなんてないぞ! ひどい。
あとの三つは、この二つよりは“文鳥の気持ち”を知るための非言語メッセージだと思うが、多分、機械的に当てはめられるわけではなく、細かに繊細にそのときの小鳥のしぐさを観察する必要が出てくるだろう。

<噛む> ―― ふうむ、確かに、無理やり捕まえられると<噛む>のは、鳥をはじめとして多くの動物で(ヒトも?)見られる行動だが、ここには他に、嫉妬や嫌悪のときも噛むとある。

文鳥は、嫉妬をするのか? 

文鳥は愛情が深く、人間に対してもその人間を“恋人”だと決めると、その人間の彼氏とか彼女に対して、猛攻撃に出る、という話はよく耳にする。

文鳥は嫉妬して噛むのか?

実はこれが、当面のわたしの課題である。

自分のしたいことがはっきりしており、それゆえ何かが気に入らないと、とても潔く怒ったり攻撃したりする小露鈴と比べ、gaeaちゃんは傍に居さえすれば、いつもおとなしく穏やかに肩や手の上に止まってじっとしている。あるいは、ひたすら羽繕いをしている。やや臆病な面はあるが、決して怒ったりしない、いつも上機嫌の“とてもいい子”だ。
 だが、そんなgaeaちゃんが最近ごく稀に<噛む>ようになった。
 決まって、小露鈴もいて、わたしと小露鈴がお互いに向き合って仲良くしていたり、小露鈴を手に包んで撫でているときだ。
 そんなとき、近くまで寄ってきて、それでも小露鈴とわたしがお互い同士に集中していると、わたしのからだのごく一部をほんのちょっとつまむように<噛む>(痛い!) 
 「ちょっと気に入らない」「仲間はずれにするな」ということなのだろうか。
 (因みに、えこひいきしているわけではありません。どちらの文鳥さんにも、同じように対しています。逆のケースのとき、小露鈴は、無理に間に入ってくるか、どこかに遊びに出かけてしまいます。はっきり/あっさりタイプだから)

gaea噛む

(gaeaちゃんです)

それでも、以前、小露鈴が、そのう(文鳥の胃袋)からワーッと食べたものを撒き散らして吐いたことがあった。わたしが小露鈴以外の小鳥の世話に追われたときだ。
 わたしは、すぐに病院に連れて行った。彼女には、わたしが他の小鳥の世話をするのがショックだったに違いないし、決して彼女を見捨てたのではないと言葉で伝えられないが故に、ひどい気持ちを味あわせたのだろうと感じた。自責の念に押しつぶされそうになり、後悔と彼女に詫びたい気持ちでいっぱいだった。
 ところが、小鳥専門の名医と言われる獣医さんは、「ショックと苦悩? 何羽文鳥飼っている人にだって、そんなこと聞いたこともないですよ」と一笑に付した。

その獣医さんを、とても尊敬しているので、わたしは自分が、小鳥の気持ちを擬人化して考え、過度の感情移入をしているのかと思い直して、恥ずかしくなった。


だけど、今は、どうかな?
小露鈴やgaeaちゃんの“気持ち”は本当のところ、どうだったのかな? 
小鳥に対して、擬人化や感情移入を過度に恐れるあまり、コミュニケーションの“相手”としての小鳥に対してそのとき素直に感じたことを、押さえ込んでしまうのは、どうなのかな?

もちろん、“思い込み”の“押し付け”もいけない。
もっと相手を受け止めて、よく観察して、相手からいろんなことを感じ取れなければいけない。ちゃんと“小鳥の気持ち”を感じたい ―― 気持ちのすれ違いは、仕方ないと割り切らなければならないときもあるが、時にはその結果、辛いことも起きるのだから。

小鳥は、どんな気持ちなのかな? 
小鳥は、一瞬一瞬に全力投球して、生きているように見える。
ここからはファンタジーですが ―― もしもわたしに“小鳥のこころ”があったら、毎日、嬉しくてスキップしたり、気に入らなかったらバーンと引っぱたく。「嫌だ」や「怖い」は一目散に逃げるぞ。空や森がきれいな蒼や緑だと嬉しくて声を張り上げて歌い、淋しくなったら傍に居る好きな誰かの腕を取り、なりふり構わず滅茶苦茶甘える。シンプルでストレートに、情緒豊かに生きる。
・ ・・ 本当に、わたしたち、小鳥みたいだといいですね? 

【参考文献】
今泉忠明 『ペット49種とコミュニケーションできる本』 主婦と生活社, 2003
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Kinship With All Life

「hearing the unheard voices」に関わることが書かれている本と言うと、広い意味ではほんとに沢山あるのですが、その中でも“活きのいい”本の読書ノートをとっていきたいと思います。一般書も学術書も、古典も最近のものも、“活きがいい”ものは扱っていきたいと考えています。

今、手元にあるのが、最近文庫化されて読み返したばかりのJ・アレン・ブーン著『Kinship With All Life』だ。邦訳は『動物はすべてを知っている』 ―― 文庫化される以前、講談社から出版されていたときは『ヒトはイヌとハエにきけ』だった。

一言で言うなら、この本は、“すごいところまで行った”という点では一、二を争う「異種間コミュニケーション」についての本だと言える。映画界で活躍し、「銀幕王国の聖フランシス」と呼ばれるブーン自身が、様々な生きものと現実に関わって、その関わりの中で彼らに多くのことを教えられていく。その教えの中核となるのは、あらゆる生きものはつながっており、そうしたつながりを宇宙的な視野に立って眺めるならば、その源のただ一つの存在である、ということである。ブーンの体験した「異種間コミュニケーション」の様々な興味深い逸話の中から、そうした教えが感得されていくということも、この本の真骨頂であろう。

「異種間コミュニケーション」研究を、西洋近代科学からの延長線上にある現代の科学技術先導社会の真理体系が唯一のものであるとする視点から眺めるなら、この本で語られている内容は、“怪しげ”として一蹴されてしまうかもしれない。あるいは、“はやりの”“ニューエイジ好み”のファンタジーのジャンルと片付けられてしまいそうだ。
 ブーンは、ハリウッドスターとなったジャーマンシェパード犬とたまたま暮らすことになり、そのイヌの威厳と確信に満ちた生きかたに魅せられるうちに、多くのことをこのイヌから教えられるようになり、ついにはヒト言語によらない沈黙のコミュニケーションによって、彼との聖なるつながりを感じることが出来るようになる。彼らは、命あるものとして互いにつながっており、しかも大いなる「存在」「宇宙のこころ」の下に同じ仲間であることを知るようになる。
 “怪しげ”と本を放り投げないで、ブーンが動物たちとの関わりから感じ取っていったことを一つの世界観、生命観として理解するなら、この本は、わたしたちに、自分の存在や他者の存在が一体何であるか、自分が何処から来てどこに向かっているのか、についての深遠な洞察に向かわせてくれる。
 「異種間コミュニケーション」についてのいわゆる“科学的”研究は、「動物にこころはあるのか」などという議論でさえ解決の糸口を持たず、雲の中に頭を突っ込んだままのような不消化感をいだかせる。そうした“科学的”研究では、“最も脳が大きい”が故に“人間と同程度に知的”と仮定した霊長類やイルカ・クジラに、ヒト言語を教え込めるのか、その学習成果はヒトの能力と比べてどれくらい低いのか、を測ろうとしている。それとは対照的に、ブーンは、ちっぽけなハエやアリやミミズとも、出逢ってご縁さえあればその相手と敬意ある態度で向き合い、相手から何かを学び、生きものとこころを通わせる「異種間コミュニケーション」のエピソードを書いている。真偽を問うのも良いし、どちらが正当かを論ずるのも良いかもしれないが、“そこにある命を命として認める”“その命と自分の命とのつながりを感じる”“そうした命、命のつながり、その源泉が聖なるものであると気付く”というブーンのあり方は、決して決して見下してはならない。

自分がすでに持っている観念、前提、知識から世界を分割すれば、予め見えていること以上のことは見えない。でもわたしたちは、他者という素晴らしい存在と出会い、そこから新たなことを学ぶことが出来る。自分の境界を越え、たがいの境界を越えて、そこにある何かを新たな目で見つめることが出来る。その他者が、イヌであっても、スカンクであっても、ミミズであっても。

ブーンは、その「何か新たな目で見つめる」ことが出来た。その秘訣? --彼について解説しているポール・ハーマン・レナードおよびビアンカ・レナードは、ハリウッドの聖フランシスコと呼ばれたブーンを、「自然との親和力を深めることに卓越していた」と評している。

けっして動物たちを「畜生」としてみくだすことなく、生命という大いなる冒険におけるよき仲間として、かれらと対等に接した。生来もちあわせていた宇宙感覚によって、ヒトと動物とのあいだにある一切の人為的な区別をこえて飛翔することができたのである。
(『動物はすべてを知っている』 前書き「著者J.アレン・ブーンについて」)

さらにブーンは、「未知の領域を探索する冒険家」であり、様々な世界に生きる人と親交を結ぶことの出来る魅力を持っていた。そして、アメリカ先住民を尊敬し、人間以外の生きものを兄弟とみなし、生きものと親しくなれる先住民の力から多くを学んだ。特に、相手に対するヒトの想念は、「放射されている」とみなす先住民たちの教えを受けて、身振りと「直感」、「沈黙の言葉」による会話を学び取っていったことが興味深い。

アメリカ先住民やベドヴィン(アラブ系の遊牧民)の動物観を学んだブーンは、「万物は大霊が必要とし、大霊が利用するだけのものではなく、人間とその兄弟姉妹たちが活用するためのものである」という思想が、特定民族だけに独創的なものではないことに気付く。そして、動物と自分とをおなじ精神的・霊的レベルに置いて、様々な生きものが織り成す世界を見つめ直す。

けものに尋ねるがよい、教えてくれるだろう。
空の鳥もあなたに告げるだろう。
地を這うものに問いかけてみよ、教えてくれるだろう。
海の魚もあなたに語るだろう。
かれらはみな知っている。
  それがとこしえの道であることを。
すべて命あるものは、肉なる人の霊も
  とこしえの道の手の内にあることを。
   (ヨブ記 第一二章七-一〇節)

わたしたちは人間以外にも、沢山の兄弟姉妹を持っており、彼らに問いかけることも、彼らと語り合うこともできるのだ。

う~ん、だからと言うか、だけどと言うか、邦訳の題は気に入らないな。この本の翻訳者の上野圭一氏の訳は、たいていは好きなんですけど、原題の『Kinship With All Life』(全生命との血縁関係)が、やっぱり大切なテーマなんです。しかも、LivesでなくてLifeだということにご注意。全ては、源のところで一つなんです。

ブーンは「フレディー」と名づけたイエバエとも、親しくなる。昼間、彼の家を訪れるフレディーに、“人間ならすぐに叩き潰す、いとわしい生きもの”という観念や条件付けを捨てて、敬意を持ってまっすぐに向き合ったとき、両者の出会いの中で、様々な不思議なことが起こる。最後にフレディーは、ゆっくりと輪を描いて飛び、朝の黄金色の光の中に溶け込むように見えなくなる。

全ては源のところで一つ。
そのつながりを取り戻し、調和をもたらしゆくコミュニケーションが、今、わたしたちにとって最も大事なコミュニケーションなのではないか。

(J.アレン・ブーン 『動物はすべてを知っている』 ソフトバンク パブリッシング <SB文庫<)
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Ladies, Speak Out!! I.

朝起きるとすぐ、小露鈴とわたしは大騒ぎ! 

チャチャチャチャ!(足踏みしながら、急いたような声で)
「ちろり~ん!」(彼女の部屋<=鳥かご>のドアを開けて、ころげるように手の中に飛び込んでくる彼女を受け止めて)
チャチャチャチャ!! 
「ごめんね、ごめんね」(両手で彼女を包み込みながら ―― 一応、夜の間、一人で部屋に置いておいたことについて、謝っているつもりです)
キュルルルル・・・ (「キュルルル」とか「カルルル」は、一般には、文鳥の怒ったときの鳴き方ですが、この場合、甘えるようなトーンで鳴いていて、「もう、ずっと一人にしとくんだから」と、やや拗ねているような感じです)
「いい子だね。ちいちゃんは可愛いね」(彼女の頭や顎の辺りを撫でながら)
キュルル・・・

この後、台所の水道の蛇口から流れ落ちる水を、嘴近づけそのまま飲んで、小さな木皿に入れた雑穀のご飯を食べる。そして、わたしが朝のヨガをしたり片づけをしたりする側で、小露鈴は気ままに、自分の好きなことをしている。ご飯をついばみ、わたしの周りをぴょんぴょん飛び跳ねながら、彼女は絶え間なく鳴いている。

「小露(ちろ)ちゃん、お喋りりだね~ よくお話してくれるね~」
チチチチ
「ほら、何言ってるの~」

そう、彼女は、gaeaちゃんと比べても、とにかくよくお喋りをする。彼女の鳴き方、声のトーンに、身振りやしぐさ、そのときの状況や前後の脈絡、いつもの習慣や<人間-文鳥関係>を重ね合わせると、少なくとも彼女がそのとき、どんな気分でいるのかが感じ取れる気がする。
 コミュニケーションがメッセージのやり取りだとすると、文鳥が、厳密に「メッセージ」と呼べるものを発しており、そうした文鳥の行為が意識的なものであるとみなすのは、動物行動学的に見ても、社会学・言語学的に見ても、大いに疑問の余地があろう。
 小露鈴は、何かをしながら、その動作の一環として、鳴き声を発していることが多い。人間の視点からは、いかにも突然、まるで思いついたように飛び立つとき、同時に「チッ」と確信に満ちた強い鳴き声を発する。「待ってました」と好きな胡瓜に飛びついて食べ始めると、「チチチ、チチチ」と感に堪えたような声。そのとき、そのときに向き合っている対象や、捉えている世界に対する、彼女の姿勢が、身振りやしぐさと共に声として発せられているようなのだ。
 それを人間が捉えるとき、鳴き声の中に彼女の気持ち ―― 情緒や気分 ―― が豊かに表れ出ているように感ずる。毎日、毎日の微細な鳴き方の違いが識別できるようになり、そのときの状況に彼女がどう向き合っているかの脈絡が汲み取れ、確認できるようになると尚のこと、鳴き方から彼女がどんな気持ちでいるかが細かに分かるように感ずるのだ。
 
「チッ」 (別の部屋にいる彼女の鳴き声)
(間)
「チチッ!」 (声がより強くなる)
(間)
「チチチチ!! チチチチ!!」 (非常に強い声で、切羽詰った鳴き方。同時に、鳥かごのドアを嘴ではさんでガシャンガシャンとならす、うるさい音)

最初の声で「どこ?」とわたしを呼び、わたしが応答もせず、現れもしないのでだんだん耐えられなくなり、最後に「どこにいるの? そこに行きたいんだから鳥かごから出せ出せ!」とどなっている(ようだ)。

こうなってくると、彼女が人間という相手に向かって鳴くときは、“感情を表現している”だけでなく、“感情を訴えている”と人間は感じてしまう。動物は、情動を表現するだけであって、意識的にメッセージを伝えられる能力はないのだと、論じられることが多い。だが、この“表現”と“メッセージ”との間には、そんなにはっきりとした境界線が引けるのだろうか。現に、小露鈴は、彼女の様々な声の出し方によって、わたしが“彼女の声をちゃんと聴き”、彼女の望みをかなえるまで、様々な声で鳴き、行動に出ることを繰り返すうち、“わたしにわかるように伝える”ことに習熟してしまっているように思う。

鳥の声の研究においては、その「歌」の研究で興味深いことが明らかになってきている。鳥の鳴き声には、主に、「歌」と呼ばれる「囀り(さえずり)」と、「地鳴き(じなき)」と呼ばれる声との二種類に区分されている。「囀り」をするのは、例外もあるがオスが中心であり、様々な種類の鳥の美しい歌声は人間にも愛でられているが、「オスが自分の縄張りを守るため、また、メスへの求愛をするためにうたうのである」(岡ノ谷)と言われている。研究によって、この歌が複数の音節からなり、その構成に「文法」があることが明らかになった。

しかし、鳥の「囀り」=「歌」について解説した素晴らしい著書でも、「地鳴き」に関しては、以下のように、実にあっさりと片付けられてしまっている。

地鳴きのほとんどは、生まれつきその音響パターンが決められている。地鳴きにはたとえば、ヒナが餌をねだる声、敵が来たことを警戒する声、交尾を求める声、飛び立ちを合図する声などがある。これらの声はたいてい一音節で、ソナグラムにすると一続きのパターンを描く。「ピッ」「ギュイー」「ツ」「ガア」などと聞えることが多い。
(岡ノ谷一夫 『小鳥の歌からヒトの言葉へ』 p.6)

(前略)・・・「地鳴き」はチュー、チィー、スィーなど一般に短く、また簡単な音声で、異なった種でも似ている例が多いし、雌雄による違いもあまりなく、一定の季節に限られてもいない。「地鳴き」は縄張りに関係なく、外界の特別な刺激、たとえば敵、親、子にたいして発声される。また、「地鳴き」は特別な姿勢や動きをともなわず、周期的に発声されるものでもない。
(小西正一 『小鳥はなぜ歌うのか』p.2-3)

ただし、1974年に出版された川村多実二著『鳥の歌の科学』では、「われわれが鳥声を採録しようとして野鳥をつけまわすときには囀りばかりに気をとられて、とかく地鳴きの記録を怠る虞があるから、大いに注意しなければならぬ」と、地鳴きに注目することを促している。

地鳴きには、たいていの場合、合図という目的があるので、同じ鳥でも幾つかの変わった地鳴きをもつものである。鶏が雛を呼ぶとき、猫を見てちょっと驚いたとき、さらに犬に追いかけられてけたたましく鳴くとき、みな違った鳴き声を出すことは、だれでも知っている。野生の鳥でもこういう種類が幾つかあることはもちろんであるが、何といっても飼鳥の場合が最も精細に研究せられているから、メジロを例に挙げると、まずメジロのごく普通な合図音は、雄がチーまたはチュー(これは個体の差)で、雌がツーまたはチェーである。ただ何となく同一行動をとる際の仲間同士、または雄雌間の連絡を保つような場合はこれで、軒先に吊されたり縁側の柱にかけられたりした籠の中で終日やっているのもこれである。次に餌猪口に新鮮な擂餌をもらったとき、蜘蛛のようなものが手に入ったとき、ことに外を飛びまわっていて椿の花か何かを見つけて喜んだときには、いっそう強く長く、むしろさえずりの一種(のちに説明する浮かれ歌)と認めてよいようなキリキリキリキリを声高くやり、これを聞くと仲間がいっせいに集合して来る。さらに急速な集合を促すときは、キリキリツーツーキリキリツーツーというふうに、キリキリと地鳴きを交互につづけてやる。近畿地方の愛鳥家のあいだでこれを「引っ張り」と名づける。また同じ枝に所狭く並んで、俗にいう目白押しをやろうとするときは、ジビジビジビまたはヂュクヂュクヂュクというふうに鳴く。これを「引き着け」と名づける。これと反対に、警戒にはペケペケ、相手を嫌って離れようとするときは、いわゆる「否鳴(むやなき)」、すなわちチンまたはツンを早く繰り返し、山では一羽がこれをやると全部がさっさと引き挙げてしまうので、飼鳥家はこれを「挙げ」または「逃げ」を吹くともいう。
(川村多実二著 『鳥の歌の科学』 p.37-8)

メジロの地鳴きに関する、川村氏の説明を読むと、メジロの地鳴きにしても、奥深く観察していくことが出来ることが分かる。スズメもそう。盲目で、聴覚と文筆の天才、三宮麻由子氏は、スズメの地鳴きについて、次のように表現する。

たとえば餌を見つけたとき、スズメは小刻みなけたたましい声で、「ジュクジュクジュク・・・・・」と長く繰り返し、仲間を呼ぶ。呼ばれてきた仲間たちは、「ピユ、ユン、チチュ、チリッ」とさまざまな声をたてながら餌をつつき出す。餌から餌へ飛び移る羽音も勢いよい。側で、じっと聞いていても、慣れたスズメは逃げようともせず、餌の上に座り込んで休んでいる。(三宮麻由子 『鳥が教えくれた空』 p.18)

スズメの声を繊細に聞き分けるだけでなく、三宮氏は、スズメとの挨拶も交わしている。

(前略)・・・人と厳しい一線を引くスズメたちのなかにも時たま、割合人なつこいものがいる。そういうスズメに出会うと、「ヒユ」と鳴く声に応えて「ヒヨ」と何度か返事を続けるうちに、鳥のほうから返事をすることもある。(三宮麻由子 『鳥が教えくれた空』 p.18)


ねえ、小露鈴、あなたは文鳥のメス。「歌」はうたわぬあなたの声は、全て「地鳴き」。あなたの発する声が、「簡単な一音節」として片付けられてしまうのは、ちょっとひどいよね。あなたの豊かな表現が、「合図」や「警戒音」として以上に、耳を傾けるに値しないなんて、それもあんまりだよね。

たとえばあなたは、「カルルル」という、文鳥に特有の怒ったときや威嚇のときの鳴き方なのに、音のトーンは甘く切なく鳴くことも出来る。しかもあなたは、わたしという相手に向かって、あるいはわたしの何かに応えて、わたしたちが生きている時空間の大切な一瞬一瞬にふさわしく、声をあげている。そして、何かと向き合いながら、「チルチュッチュッ チルル チルツル」と絶え間なく歌うように鳴き続けるあなたのお喋りは、小鳥として生きるあなたの姿を映し出す響きではないのか。

各々の世界で、一瞬一瞬の自分を投影して、あるいは仲間に向かって、地鳴きをする鳥たちよ。「歌」はうたわぬ雌鳥たちよ。あなたたちの声は限りなく豊かに違いない。きっとその声を、繊細に聴き分けていけばいくほど、豊かさが分かるに違いない。

Ladies, Speak Out!! (ご婦人たちよ、思いのままにお話しください!!)
メス鳥たちよ、思いのままに地鳴きを!!

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Lady, Look Up!

【参考文献】
岡ノ谷一夫 『小鳥の歌からヒトの言葉へ』 岩波書店, 2003. (岩波科学ライブラリー92)
小西正一 『小鳥はなぜ歌うのか』 岩波書店, 1994. (岩波新書 338)
川村多実二著 『鳥の歌の科学』 中央公論社, 1974.
三宮麻由子 『鳥が教えくれた空』 NHK出版, 1998.
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色、光、音、振動 ・・・ 電流 ・・・ 接近と接触      ~海の中のコミュニケーション~

夏季休暇3日目、最終日となってしまった。
「積読(つんどく)」となってしまっていた『NATIONAL GEOGRAPHIC』誌を片付けながら読んでいたら、2005年5月号の特集にサンゴ礁の生物についての特集があり、興味深かった。

「サンゴの海の万華鏡:こんなにカラフルなのはどうして?」という標題で、見開きのページには、本当に目にも鮮やかな魚・シャコガイ・ヒラムシやウミウシ・ヒトデ・甲殻類等のカラー写真がパッチワークのように散りばめられている。コーラルレッドやコバルトブルーや、金色に近いイエローや発光する紫、パロットグリーン・・・万華鏡さながらだ。

この記事によると、「間違いなくサンゴ礁は、世界でいちばんカラフルな場所だろう」ということだ。そして、その理由というのが、

  サンゴ礁外の海は、深くて光が届かなかったり、海水が濁っていたり
  するので、生き物は視覚以外の手段、つまり嗅覚や味覚、触覚、聴覚で
  コミュニケーションを図る。しかし日光が降りそそぎ、水の透明度が
  高いサンゴ礁では、もっぱら視覚が活用される。

  自身に視力があってもなくても、生き物たちは鮮やかな色をまとう。
  しかもその目的は、交尾相手を誘ったり、敵を威嚇するだけではない。
  獲物を捕まえる、天敵の目をくらます、身を隠す、さらには能力を
  アピールするときにも色が使われているのだ。  
  (NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版 vol.11, no.5 p.71)

カラフルなのに「目をくらます」「身を隠す」? ―― この記事によると、人間が見る水中の世界と、魚たちが目にしている水中の世界は全く違うという。魚の目を調べ、そのタンパク質(視物質)や光感受性を分析し、何がどんな風に見えているかを探っている研究者たちによると、ストロボ光で照らすと鮮やかな赤やピンクのサンゴ礁は、自然光の下では、青い色調が目立つ全く違う世界として映し出される。青い世界では、これらカラフルな海の生き物たちも、姿をくらましやすいのだ。

サンゴ礁の生き物たちは、さらに、状況に応じて自在に体色を変える。その上、魚の目は、光の状態がたえず変わる水中に適応しているという。

読み進んでいくうち、もう、何が何だか分からなくなった。
結局、どこで、誰が、何色に見えるんだろう? しかも、誰にとって?? 
この世界の色は、鮮やかなのか、深い青なのか? 


海の魚たちに関して言えば、これまで、主に彼らは聴覚を使ってコミュニケーションをしているのだと思っていた。

魚たちの水中からの声は、時にはうるさいほどだという。魚たちは体の様々な部位から様々な音を出す。人間よりも低い周波数の音でも、彼らには聴こえるという。そして、水中の声は、(1)仲間同士のコミュニケーション、(2)違う種類の魚に対して伝える情報、(3)魚の発する音を違う種類の魚が利用すること、などに使われると想定されている。メッセージは、一緒に泳ぐために、縄張りを知らせるために、威嚇のために、発せられる。また、(3)については、サメなどが病気やケガで弱った生き物を感じ取るような場合だという。

海底の世界は、静かな、沈黙の世界などではないという。
ハンス・ハスという人が、水中にマイクを入れたときに聴いた音を次のように表現している。「どよめき、ゴロゴロ転がすような音、鉄の鎖をガチャガチャさせるような音、衣ずれのような音、そして合い間には、笛のような音やシュッシュッといった音まで聴こえてきます。魚たちが、愛や不安や、怒りや、警告を、歌い叫んでいるのです」

もちろん、魚たちは聴覚だけでコミュニケーションをしているのではない。
深海の静かな世界では、光が重要な役割を果たす場合もある。発光することによって、仲間に合図を送るのだ。
 1930年、初めて海中600メートル以上潜水したアメリカの深海科学者ウィリアム・ビーブは、発光魚と出逢った体験を、次のように語っている。「私は、星座が絶えず生まれたり消えたりするような、これまでに想像さえもしなかった世界をかいま見た」

さらに、人間の想像力の及びもつかないような世界であるが、海の中で、電気ナマズは、電気で話をする。彼らは、物を見ることも出来なければ、匂いを嗅ぐことも、音を聞くことも出すこともできない。水の流れを感じることさえ出来ない。だが、電気の助けを借りて、餌を食べ、敵を脅し、障害物を避け、仲間を探す。
 彼らは、1秒間に300回のパルス(電流)を絶やすことなく送りつづけている。そして、頭は電池のプラス極、尾はマイナス極、プラスからマイナスへ電気の流れが続いていて、電場を作り上げている。この場の中に入ったものは、すべて流れを変える。それによって、相手を知ることが出来る。さらに彼らは、パルスを変化させて、相手を脅したり、メスを誘惑することも出来る。
 「たぶん、彼は電気的な恋の歌を空想科学小説のロボットのように“歌って”いるのです」(クレバー 『動物のことば入門』)

まだまだある。化学的な警報を発することの出来る魚もいる。
 淡水魚ヤナギバエの皮膚を傷付けると、すべてのヤナギバエは四方八方へ逃げるように泳ぎ去るという。化学的なサイレンが警告を発したのだ。

なかなか想像力をくすぐられるが、ともかく海の生き物たちは、様々なコミュニケーション手段をもっているらしい。

わたしが一等好きなのは、コウイカやツツイカのコミュニケーションについての話である。
 コウイカやツツイカ ―― 普通、人間にとっては「美味しい寿司のネタ」になってしまいますかね ―― は、皮膚の色細胞を巧みにコントロールしてコミュニケーションをとる。

水族館で、透明に近い彼らの美しいからだの色や流れるような泳ぎを見たことありますか? わたしは、息を飲みました。

彼らは、普段は体表をまだらの隠蔽色にしてカモフラージュしているが、健康なオスは、からだの色を輝かせたり、くっきりとした白黒の縞模様をからだに浮かび上がらせたりして、危険を冒してメスにアピールする。そして、種によってはオス同士からだをぶつけあったり、噛み付いたりという闘争をしたり、メスの前で求愛のダンスを踊ったりする。

  近くのオスを追い払うと、勝ち残ったオスは攻撃的な態度から一転して
  ソフトな態度に変わる。メスに近づき、視覚コミュニケーションから
  触覚に訴えるコミュニケーションへと手を変え、メスの目のあいだや
  腕を優しく撫でるのである。はじめのうちこそメスもはっきりした
  斑紋をひらめかせて警戒心をあらわにするかもしれない。しかしオスは
  メスに水を吹き付けたり、少し離れたりして警戒心をとこうとする。
  そしてオスが何度も近寄ったり離れたりを繰り返すうちに、メスは
  文字どおり腕を広げてオスを受け入れるのである。無粋なライバルが
  邪魔をしようものなら、オスは再び白黒の縞模様をくっきりと浮かび
  上がらせる。メスと並んで泳いでる場合なら、ライバルに面している
  側だけ縞模様に変え、メスに向いている面は性的にアピールする均一な
  灰色のままでいることもできる
  (ハート 『動物たちはどんな言葉をもつか』 p.35-36)

う~ん、わたしはここを読んで、もう、イカのオスにぞっこん惚れ込んでしまいましたよ。それ以降、イカのお刺身は一度も食べていません -- 食べられなくなってしまいました。

それにしても、やっぱり分からない。人間にとっては、カラフルなサンゴ礁の世界はあまりにも見事に美しくて、それなのに、その住人たちには彩なる世界が見えていないのが、もったいないような残念なような ・・・

【参考文献】
ウルリッヒ・クレバー 『動物のことば入門』 どうぶつ社, 1985.(自然誌選書)
スティーヴン・ハート 『動物たちはどんな言葉をもつか』 三田出版会,1998.
トランスアート「銀座の学校」 『龍宮城 のど自慢大会』 大日本印刷「銀座の学校」, 1999.


魚の壺

(オランダの骨董市で、家族が買ってきてくれた壺です。三面になっていて、この魚の絵の面のほかは、鹿の絵と花の絵が描かれています
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プレゼント?

夕暮れは涼しくなってくる。
誰が植えたのだろう? ベランダに薄黄色の白粉花(オシロイバナ)。

白粉花

   (手前の、藤色の穂のような花は、ミントです)

白粉花は、熱帯アメリカ原産のオシロイバナ科の多年草。
花の後、黒くて硬い果実が出来るが、その中の白粉状の胚乳をおしろいの代用にしたという。

誓って言うが、わたしは白粉花を植えた覚えはない。それに、もともと黄色い花は余り好きじゃない。ここは7階のベランダ。他に誰も植える人はいない。野生の白粉花の種が、風で自然に飛ぶとしても、この高さまではやってこない。

だとすると、可能性としては -- 野鳥たちからのプレゼント! 野鳥が落としていってくれた、実生の花なのでは ・・・

そう思うと、さっきの「黄色は好きじゃない」の言葉も忘れて、にこにこ ・・・
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水浴び

いつもは、小露鈴が水浴びを始めると、<真似っこ>して同じように水浴びを始めるgaeaちゃんですが、今日はいつもより早めにgaeaちゃんが水浴びを始め、

gaeaの水浴び1

gaeaの水浴び2


一生懸命、羽を乾かしていたら (あ、まだ顔に南瓜の屑がついていますね)

その後を追って小露鈴が水浴びを始め、

小露鈴の水浴び1

小露鈴の水浴び2


羽を乾かし始めました。

水浴びをしたいとき、小露鈴は急に思いついたように超特急で台所に飛んでいき、そこから<ブゥーン・・・>とブーメランのように人間の方にとって返します。

人間が立ち上がらないと、台所までのブーメラン往復を繰り返して「水浴びしたいよ」と訴えます(そういうメッセージだということがはっきりと分かります)

蛇口からの水を木皿や手のひらで受け止めて「池」を作り、その池から水が溢れるようにしてあげると、人間の両手首から上の辺りをピョンピョンと行き来し、しばらく”様子を見ながら””逡巡”します。

結構長いこと逡巡します。それで、入るのをやめてしまうこともあります。足首に軽くお水をかけてあげたり、「大丈夫だよ~」と励ましたりを散々やってから、入ることもあります。(入る前、一回<トイレして>身を清めてから水に入るのも彼女の流儀 -- 「レディーなのに、こんなこと書いちゃってごめんね」)

水浴びしているところが、いちばん微笑ましいのですが、人間は両手を水でぬらして、上半身びちょびちょになっているので(だって、かなりはねかすんですもの)写真は取れないのです。

秋近い気配がしますが、まだ汗かきますね。人間も、汗だくの後の水シャワーが気持ちのいい日々です。
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it will . . .

サイトのmy bird sanctuaryの項でふれた、「立っているところが聖地」とおっしゃった氣功のI先生 -- 氣功だけでなく様々な修練の道で、世界で指折りの偉い先生だと思っている。遠くにいらしても、そこだけ貫くような光が差しているような、地響きが聴こえてくるような威風があり、近くにいらっしゃると -- これはわたし個人の感覚であるが -- わたしには、シャンシャンと銀の鈴の音が聴こえてくる。
 その先生のお弟子さんで、これまた「馥郁たる」という形容詞そのものの雰囲気に包まれたMさんは、わたしが「氣功を続けよう!」と決心したきっかけとなられた素晴らしい方だ。
 氣功というものを知って、”小鳥や樹木の声を聴く”ために、「絶対何か関係ある!」というインスピレーションがあって氣功をはじめ、素晴らしく繊細な身体感覚や感受性に恵まれた方々と出会って、その確信は強まった。しかし、体育、勝ち負け、闘争 etc. 大嫌いだったわたしは、修練を続けるためには「強くならなきゃ」と言われても、納得がいかなかった。
 それが、Mさんと”氣の交流”をしてみて、意識変革に迫られてしまった。Mさんから受け取るもの・Mさんを通じてめぐっているものは、「とても優しく繊細なんだけど、ものすごく強い!」「強くてゆるぎないんだけど、沁みるように細やか」だった。「強さと優しさ、これって同居すると、もっとすごいんだ!」。

数日前、Mさんから素敵なお葉書をいただいた。そこには「I先生がバードサンクチュアリの土地を購入されたと話してくださいました。いろいろ困難な問題や、気持ちの落ち込む事もあったと思いますが、夢を現実にできる素晴らしい強いパワーを発揮された事に感動します ・・・」と書かれていた。

え???

わたし、土地を、購入できたの? 

(理想的な土地が見つかって、そこで清々しい深呼吸をしている自分を何度もシミュレーションしてきたので、そんな映像が頭の中を過ぎる)

今、検討している候補地は二、三あるけど、無念なことに直観もひらめかず、候補地をさらに検討するにも実行力が伴わず、でもあきらめずに、大地に足をつけて出来ることからやっていく ・・・ というところ、じゃなかったっけ?

でも、あのI先生とMさんがおっしゃっているのだから (← 何故かこういう思考に入る)今検討している候補地のどれかに、決まるということかしら? 
わたしの意識に飛び込んでいないところで、決まったっていうことかしら? 

これって、あの ・・・ 何だっけ? デジャ・ビュ? じゃないか、あれは過去のことだ、馬鹿馬鹿、ええっと、未来のことだから -- 

予知? 予知夢? いや、夢みたわけじゃないから、「予知」だ!!

今にも「サンクチュアリが決まった」という知らせが来るような気がして(?!)、わたしはとりあえず待ってみることにした。「訂正」なんかしたら、せっかくやってくる夢の実現が消えちゃうもんね。

こういう思考をするほど、I先生もMさんも、比類なく素晴らしい方々なんです。わたしにとっては、「神様に近い」ような存在です。

でも、またそれから数日後、サンクチュアリを購入したという話が沢山の方々に広まっているらしいと分かって、初めてわたしは困惑した。これまでも、サンクチュアリ創立の夢を皆に話したがために、こころある多くの人が助けてくださっているが、そうやって皆を巻き込んでいるのに、購入したという話になって、これ以上迷惑をかけてはいけない。もちろん、わたしはこの夢を命に賭けても絶対に実現する。そして、この夢の源 -- 地球の緑を増やし、人間と自然が共生・調和し、人が安らぎの中で小鳥や樹木と対話できるような空間を広げていくこと -- の希求が、沢山の人に伝わり、皆の手で実現すれば、それほど素晴らしいことはない。
 でも、まず、本当に良い場所探さなきゃいけないんだ。そして購入しないことには・・・

ごめんなさい! ごめんなさい! まだ、買うところまで至っていないんですっ!

でもね、最初に書いたように、ここまでの話もやっぱり何かの巡り合わせではないかと感じられてしまう。わたしは購入までのところは訂正したいんですけれど、今、本当に沢山の人が支えてくださって、ぐんぐん力がついていって ・・・ そういう勢いを訂正したいんじゃないんです。

その思いを理解し共感していただけそうなMさんに相談すると、こんな返信をいただいた。

「I先生にお話したところ、それ程意外な顔もされず、『ほお~ そんなに遠い話しではなないでしょう』という返事でした。 ・・・ (中略) 夢の実現をとても楽しみにしている気持ちがが良く伝わって来ました。
 Sumikoさんの直感を大事にして、急ぐ事なく素晴らしい聖地を探してください。私もとても楽しみにしています」

はい! よし、これなら ・・・ 一歩一歩、しっかりと歩んでいけばいいんだ。色々と要領悪いけど、皆と比べてあまり直観力ある器でもないけれど、できることをやる。空を見上げても、木立の緑に耳を澄ましても、小鳥たちがいて、わたしのやるべきことが、しっかりあるんだもの。

双眼鏡

(バードウォッチング用の双眼鏡です。ドイツに学会で行ったとき、早朝のフランクフルトの駅で猛ダッシュして、ディスカウントショップで買いました。隣にいるのは、昨日Tさんから戴いた小鳥の雛のマスコット)
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おーい、小鳥さん

窓から空を見上げると、洗濯物を干すロープの上に、蜻蛉が二匹、止まっている。しばらくしてもう一匹が来たが、“あっちへ行け”というしぐさをされて、飛んでいった。二匹はじっと、空のほうを向いて止まっている。空はスコーンと抜けたような蒼色で、白い入道雲が伸びている。
 夏らしい入道雲。でも、何だかなあ ・・・ 今朝はどこかに、もの哀しさが潜んでいないか。入道雲に降り頻る蝉の声。でもなあ、何かが違う。<もののあはれ>がどこかに聴こえないか。秋の気配、どこかで探せないか。

最初はあれだけ南瓜を怖がったgaeaちゃんだが(8月6日)、今はせっせと黄金色の南瓜スライスを食べている。三日前の朝、彼の部屋のカーテンを開けて(鳥かごにかけたタオルケットを取って)、挨拶したら、顔の左半分が黄色に染まっていた。「そ、そういう顔も可愛いとは思うんだけど、一体どういう寝方をしたの?」 (以前、パパイアを差し上げて、朝起きたら、尾羽がオレンジ色に染まっていた。でもね、尾羽ならまだ、寝ているときにパパイアに押し付けちゃったと分かるんだけど、ね)

南瓜はねばついたまま、固まってしまったのか、お風呂に入っても(水浴しても)落ちていない。本人(本鳥)は、いたって平気な顔。(「急にお客様がいらしたら、どうするのさっ!」)

南瓜のついたgaea


さて、昨日の続きだが、鳥さんたちに応えるために人間としてできることは、わたしが考えつく限りでも、広い範囲にわたって沢山ある。様々なレベルで出来ることがあり、そこには、どういうコミュニケーションをしたいのか、その考え方によっても、色んな ―― 時には矛盾する ―― 可能性が含まれている。
 一番核心の、基本路線は、「コミュニケーションとして」考えるなら、ひとえに<鳥の鳴き声・‘からだの声’を聴く>ことに尽きるだろう。鳥の視点で見えてくる世界、鳥の感覚や情緒や気分に想像をめぐらせ、取り巻く状況と鳥の声、身振りやしぐさ・行動の細かな相違・変化に気づき、観察していく必要がある。これが、hearing the unheard voices の中核のテーマだ。
 広い意味で、人と鳥との関係を問うなら、特に野鳥の場合、とにかく細心に観察して、その鳥がどんな状況にあるのかを探っていかなければならない。人間を怖がったり避けたい様子が見えたら、人間側が“鳥の気持ちも考えず”無理に「遊ぼうよ」「話そうよ」などと押しかけてはいけない。ごく稀にだが、人間に興味を持って ―― 距離さえ適切に保たれていれば ―― 寄って来てくれるカラ類やキツツキ類などがいる。こういうときも“相手の声をよく聴いて”適切な関係を結ぶ。コミュニケーションとは、べったりと親愛関係を結ぶことばかりではない。ましてや、無理強いすることではない。相手を「遠くから、暖かく見守る」ことも、大事なあり方だと思う。
 人と暮らす鳥(domestic birds)の場合はどうなのか。やはり、相手の声をよく聴き、人間側が押し付けないことが大切だと思う。そして、仲良くなるには<一緒にいる>こと ―― 命ある相手と、いつも一緒の空間にいて、同じ時を過ごし、相手と暮らしているという意識を忘れないことが大切なのではないかと思う。

<聴く>以外で、わたしがgaeaちゃんに試みてきたことの一部を、思いつくまま、ちょっと挙げてみる。

1.話し掛けること
家族となってくれたばかりの頃、gaeaちゃんは、いわゆる「荒鳥(人に馴れていない飼い鳥)」だった。彼にとって、全ての人間はとても恐ろしいものだった。というより、人間を<人間のひとまとまり>と見てはいなくて、人間の<手>というものが、パニックになるほど怖く、<顔>に関して言えば、わたしが顔を近寄せても、それほどでもなかった。(多分、「<手>荒な」目に遭ったんだね(涙)) その<顔>でさえ、目を合わせることはなく、gaeaちゃんにとっては、人間の手と顔は、“怖い何か”と“ちょっと怖いような気がする何か”であって、人間は“人間という相手”であるという見方はせず、自分に近づいてくる“怖い”“ちょっと怖い”何かという見方しかしていなかったのではないかと思う。

近づくとパニックとなって、ばさばさと羽ばたいて逃げ惑うgaeaちゃんだったが、彼の位置より低く身をかがめて、静かに優しく見つめ、わたしは話し掛け続けた。一日に一回以上、「怖くないからね。誰もgaeaちゃんをいじめたりしないんだからね。一緒に暮らそうね」と言葉をかけた。食べ物や水を取り替えるときは、どうしても彼の鳥かごに手を入れざるを得ない。そのときは、必ず視線を向けて「ごめんね。ご飯を換えるね」と声をかけてから手を入れた。
 三ヶ月くらいすると、食べ物や水を取り替えるために声をかけると、ぴょんと止まり木を移って、交換の間、怯えずにじっと待っているようになった。そしてあるとき、「一緒に暮らそうね」と声をかけたとき ―― そう、それは本当にわたしのそのときの感覚的なことなのだが ―― “目と目が合って”とても嬉しそうにした。わたしは、「あ、“相手”とみなしてくれた。通じた」と感じた。そのあと数日して、「一緒に暮らそうね」の言葉をかけると、彼は嘴拭き(以下の2参照)をするようになった。

そうして ・・・ gaeaちゃんはあるとき、鳥かご越しにわたしの鼻を齧ってくれて(!)、そのうち足先を撫でさせてくれるようになり、手に止まるようになり、手に止まって粟の穂をゆっくりゆっくり食べるようになり ・・・ 長い時をかけて今のように片時離れぬ仲間になったのだ。(その間、長時間鳥かごの中で右手を彼に差し出したりして、一時は人間がひどい肩こりになった)

今では ・・・ 部屋の外に出ると、ずっと肩や腕の上に止まっている。肩の上で羽繕いしているとき、「綺麗だね~ gaeaちゃんはカッコイイ文鳥さんだね~ ハンサムだね~」と声を掛けると、さらにめちゃめちゃ張り切って羽繕いに精を出す。(ちらりとこちらを見るのだが、見つめ返すと「知らないよ~」という感じで、気付かない振りをしてスマシテイル)

2.嘴拭き ~未だ試行錯誤~
異種間コミュニケーションについての講義を受けてくださる方々によくテストをする。「文鳥が止まり木に対して、シャキンシャキンとナイフの両刃の泥を落とすように嘴を拭くとき、この文鳥は何をしているか?」 

鳥と暮らしたことのない人は分からないでしょう?

鳥は嘴の汚れを拭いているのですか? はい、そういうこともあります。でも、これは、鳥さんの喜びの表現です。「嬉しいよ!」とか「大好きだよ!」とか、そんな感じです。文鳥の飼育書や文鳥関連のサイトでも、嘴拭きについてはそう書かれています。

なぜ、よくテストするかというと、これは人間にはない行動だからだ。当たり前だが、人間には嘴がなく、嘴拭きはできない。人間は、文鳥をよく観察していなければ、文鳥のこの行動を見て、嘴の汚れを落としたのだろうと解釈するか、多くの場合、無視してしまうのではないか。(実は、わたしも長い間そうだった ―― 見ていたのに、見ていなかった)

いったん、この嘴拭きに目を留めて、よくよく観察して(その状況や他のしぐさ・声などと関連付けて)、「う~んこれってもしかして?!?」と、はたと気づくと ―― 「そうそう、そう言えば!」 ―― 文鳥さんがこれまでやっていたことがストーンと腑に落ちる。ごめんごめん、ちっとも気付いてあげられなかった。

優しく話し掛けるとシャキンシャキン。朝起きて新しい綺麗な水を運んでくるとシャキンシャキン。一生懸命鳴いて呼んでいるので近寄って返事をするとシャキンシャキン。大好きな胡瓜を差し入れするとシャキンシャキン。

そうか~! 嬉しいんだね~っ!

聞こえない声を聴くことの真髄がある。

さてこの嘴拭きに対して、どういう応答をすればよいのでしょう? 実を言うと、わたしもまだ試行錯誤だ。ある文鳥関連サイトでは、文鳥は人間の指を嘴と認識することがよくあるので、文鳥がシャキンシャキンと止まり木を嘴で拭いたら、同じようにシャキンシャキンと指で止まり木をこすると、文鳥が相手からの反応をもらって喜ぶ、と書いてあった。「嬉しいよ!」「わたしも嬉しいのよ!」「ヤッター」という感じでしょうか。

で、小露鈴やgaeaちゃんにこれを試してみたけれど ―― うまく行ったように思えるときもあるが、いまいちの反応のときが多い。それよりむしろ、弾んだ声で「そうだね~ 良かったね~ 嬉しいね~ 偉いね~ うん、そうだね~」(周りに人間がいないので、こんな感じで言っていますが、人間界では意味不明ですね)と言葉をかけてあげると、張り切ってまたまた嘴拭きをしてくれる。まあ、うちでは、この方が良いようだ。

3.羽繕い(はづくろい)
言わずと知れた鳥さんの羽繕い。親しい間柄では、お互い同士で羽繕いしたり、好きな相手の羽は繕ってあげるのでしょうか。動物番組で、鳥同士の互いの羽繕いを見たこともあるし、鳥ではないけれど、猿の仲間では毛繕いのスキンシップが群れの仲間の調和を保つために非常に重要だと、よく読んだり聞いたりする。

あるとき、肩に止まっていたgaeaちゃんが、わたしの後れ毛をスーッと嘴で梳いて、それを何度も何度も優しく繰り返してくれた。あれ、これって「繕って」くれたの? と思っていると、時には頭の上に止まって、毛の一本一本を思う方向に梳いてくれたりするようになった。(ありがたいと言うか、何と言うか ・・・ 洗髪後、よくやっていただいています。乾かす手伝いなのかな)

お返しに、gaeaちゃんが自分の羽を繕っているとき、胸の辺りのふわふわの羽毛をちょっとだけ軽く ―― ほんとに軽く ―― くわえて優しく引っ張ってみる。お、人間だって出来るよ。gaeaちゃんは怖がらないどころか、嬉しそうだ。何だかなあ ・・・ でも、まあこれもいいか、と続ける。

4.その他:「文鳥キス」、スキンシップ、遊びなど
その他にも経験的に分かってきたことや、いろいろ工夫したこともある。たとえば、文鳥の気持ちになって、相手が投げかけてきたことに、少々お付き合いすることとして、「文鳥キス」、スキンシップ、遊びなどがある。

「文鳥キス」―― レン・ハワード著『小鳥との語らい』に、嘴と嘴、人と鳥なら、嘴と鼻の先、を軽くちょっと触れるのが「小鳥流のキス」であると書いてある。人間の顔で嘴にあたるのは、一番尖っている鼻ってことなのか。
 小露鈴はしょっちゅう、gaeaちゃんはごくたまに、わたしの鼻や口に軽く接触したがる。挨拶!!という感じで、ちょっと嘴を寄せてくるので、ほどほどにお付き合いをする。「ペットとの過度の接触による感染」が話題に上ることの多い昨今であるし、べたべたの関係もちょっとなあ、と思うので、こちらからはお願いしないが、失礼にならない程度にお応えして、あとは身を引く。(それに、小露鈴がわたしの口に関心を寄せるのは、「食べ物ないか?」という興味からではないか、という疑いもある)

スキンシップ ―― 「ここ掻いて!」「ここ撫でて」「手のひらをお布団にしたいから、じっとしてて」という文鳥様の要求は頻繁である。時間の許す限り、お付き合いをしてしまう。
 実は人間のほうも、そのふわふわの毛、気持ちよさそうに目を閉じてしまう可愛さ、微かな動物の匂い、軽いはずなのにからだを委ねたとき感ずることりの重み、手のひらと羽毛の間の微かな湿り気、信頼してくつろぎ眠る姿、などなどに、はまってしまっているのだが。

遊び ―― 元気良く跳ね回る、ちょっとハイになって大騒ぎする、何かに軽く怒ったり、攻撃したりしてみる(喧嘩は文鳥のたしなみ)、いつもの自分の領土に点検に出かけたり、新たに危険区域(いや、普通の部屋の片隅なのだが)に探検に行ったり、巣づくり行動の真似をしてみる、などなど、文鳥は色んなことをしている。
 手の中に座っているときも、ちょっと眠気がおさまれば、軽くだが、頭突きや甘噛みをしてみたり・・・
 まあ、人間側もちょっとお付き合い。時には、一緒に大騒ぎ。
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一緒にいる

高湿度の熱気がこもるような日が続くなか、gaeaちゃんは相変わらず換羽中である。毎朝、彼の部屋のカーテンを開けると(=鳥かごにかけてあるブランケットをはずすと)、(鳥かごの)床に小さな細かい羽と”鞘のかけら”が沢山散らばっている。長い尾羽もときどき落ちている。
 新しい羽は、ふわふわのまま生えてくるのではなく、ときんときんの鞘となって生えてくる。この鞘とは、羽が薄い皮にきゅっと包まれてカプセル状となって固まっている感じのものである。最初はときんときんの、やわらかい棘のようで、痒かったり痛かったりするらしい。これが伸びてくると、カプセルがはがれて、ふんわりとした羽になって拡がる。この間、文鳥は、しょっちゅうからだを掻きむしっている。触られると大変嫌がることもある。
 鞘のかけらとは、カプセルの砕けた細かい破片である。

換羽中のgaea


換羽のときは、通常、文鳥は体力が落ちて、じっとしていたり寝ていることが多い。個体によっては、不機嫌になったり、いつもと違う行動を取ることもある。小露鈴は、換羽のさなかには、部屋(鳥かご)に閉じこもって、カーテンを引いて(かごにブランケットをかけて)ずっと眠っていた。

gaeaちゃんも今、からだがだるく、しんどいに違いない。目の周りのリングの色(通常は赤かピンク)も薄くて白っぽい。血が行き渡っていない証拠だ。止まり木でじっとしていることが多く、いつものように飛んだり、お気に入りの場所に点検に出かけたりしない。そっとしていると、瞼が上がり(鳥は上瞼を下げるのではなく、下瞼を上げる)うつらうつらしている。

そう、人間で言えば、「寝込んでいる」状態に近い。

だが、そんな中でも、gaeaちゃんは「文鳥さん魂(だましい)」を決して忘れていない。

え、「文鳥さん魂」??? はい、「仲間と一緒にいる」ことなんです。

仲間と決めた相手とは、いつも一緒にいようとする。一緒の空間にいて、共に行動していようとする。時には、個々ばらばらの行動もするけれど、そんなときでも事あるごとに鳴き交わし互いに確認し合う。まるで、互いが織り成しあって、全体としてまとまって、ひとつでいるといった感じだ。

gaeaちゃんにとって、仲間とは小露鈴とわたしだ。文鳥さんたちは、仲間と一緒に、こちらの部屋からあちらの部屋へ(と言っても、うちは二部屋しかないが)。人間が立っていれば文鳥も肩の辺りへ、人間がごろごろしていれば、文鳥も床や人間のからだの上をぴょんぴょん。
 そして、仲間が鳴けば、自分も応えて、鳴き交わす。(チッまたはチチッ -- 人間の声のほうは多様)
 仲間が移動してどこかに行けば、自分のいる位置を仲間に知らせる。(チチチチッ)

gaeaちゃんはいつも、力の続く限り、仲間と一緒にいようとしている。その努力は涙ぐましいほどだ。
 たとえば、彼の部屋(鳥かご)は、和室にあるのだが、わたしが和室の東側の押し入れの辺りから西側の窓へと移動すると、部屋にいる彼は、押入れに一番近い止まり木から窓に一番近い止まり木へとぴょんぴょんと移動する。わたしが移動する距離と比べ、その移動は30センチくらいなのだが、必ず、自分が届く一番近いところまで、わたしの近くに来る。そして、わたしの方を向いて止まる。
 わたしが和室を出て、お風呂にでも入れば、和室から狭い廊下をコの字型に入った先にあるお風呂場の方向に一番近い、ボレー粉入れ(文鳥の栄養食、ボレー粉すなわち牡蠣殻の砕いたものを入れた容器)に止まって、じっと待っていてくれる。夜遅く帰っても、ここでじっと待っていてくれるのだ。
 
gaeaちゃんの部屋のある和室で、彼の部屋と並行に布団を敷いて、わたしは寝る。彼の部屋は台の上にあるので、わたしが寝ると、彼は見下ろす格好になる。
 この週末、あまりの暑さに体調を崩し、昼寝をしたのだが、そのときも彼は、下で寝ているわたしに近い止まり木やボレー粉入れに止まってうつらうつらしていた。ふと目を覚まして、伸びでもすると、小さな声で「チチ(=いるよ)」。水でも飲もうと、台所へと立ち上がるとやや強い声で「チチチチ(=行くな)」。

何だか、「一緒に眠っている」という感じだ。

からだがしんどいんだから、好きに寝てしまえばいいのに、ちゃんと一緒にいようとしてくれている。羽が抜けていて、うまく飛べないのに、一生懸命追いかけてきてもくれる。

以前、『動物奇想天外!』という番組で、「人間の言葉が話せる動物 オウム・インコ」という話題を取り上げたことがあった(2003年3月2日放映)。人間の言語や身振り・しぐさを、見事に覚えたオウムやインコのスターたちが登場した。
 その中で、人間の言葉を覚えるのは、彼らが社会的な動物であり、仲間とより良いコミュニケーションをとるために、相手の声を真似る習性があるからだという説明があった。また、いわゆる「オウム返し」といった機械的な音声の反復を超えて、彼らが人間の言葉を理解し、反応を返すことも紹介されていた。さらに、鳥類は、人間に対しても嫉妬したり、人間の放置による孤独から自虐的行動に走るなど、情緒豊かな動物であることも訴えられていた。

仲間とみなした人間と、良いコミュニケーションを取りたいがために、人間の言葉を覚えるのだ。

それを知ったとき、それでは<人間として>そんな彼らにどこまで応えられるかと想った。鳥類側の歩み寄ろうとしてくれているがんばりに対し、人間側はどこまでがんばって、何を返せるのか。

人間の言葉こそ話さないが、gaeaちゃんも一緒に生きようと一生懸命でいてくれる。鳴き声やからだを使って、仲間であること、同じ空間・時間にいること、共に生きていることを一途に伝えてくれている。

人間の仲間として、これに応えるために、何が出来るのか。(これについては、また・・・)





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雷雨の後

一昨日の午後、「ひと雨来るといいなあ」と思った矢先、激しい雷雨が訪れた。連日の炎天で、木々の枝葉がしおしおとなっていたので、しばらくの間は、滝のような雨も嬉しかった。が、そのうち、何度も落雷が続き、大きな木が雷にやられやしないか、心配になってきた。

雨は短時間でやんだ。

雨上がりの緑は、潤って、見ていて本当に気持ちがいい。湿気がうすい靄となって、木々が薄緑の綺麗なショールをまとっているようだ。

帰りがけ、小さな路地で、地面のあたりを何か濡れて頼りないものが横切った。

よく見ると ・・・ 小さな、小さな、ことり。目の周辺に不完全な白い輪が見え、背中までは暗いオリーブグリーンで、そこから尾羽までは黒っぽい灰色に見えた。地面に生えた草に頼りなげにつかまっている。

あ、メジロの巣立ち雛だ! いや、それとも、まだ巣立つ前の雛が、激しい雨で巣を壊されて、おっこったのかな? いずれにしろ、雨でずぶぬれで、その小さな翼で、まだうまく飛べないらしい。わたしを見上げて、小さな細い澄んだ声で「ぴろぴろっ」と鳴いた。

う~ん、この子は大丈夫なのか? どうすべきなのか、まず慎重に判断せねば。人間は、そっと見守るべきなのか、助けるべきなのか、こういうときの判断は、よく観察し、よく考えてからでないといけない。

この子自身、自分の身を守れるだけの力があり、近くに親がいて、自立間近なら、人間は絶対に手を出してはいけない。よく、巣立ち雛を「可哀想」と人間が保護することがあるが、これは「誘拐」なのだと、日本野鳥の会では戒めている。一見頼りなげに見えても、その子には立派に生きる力があり、親はその子を誘導して、独り立ちを促しているのだ。人間が保護したところで、同じようにその子を無事自然に戻せる可能性は高くない。

一方で、このままではみすみす死んでしまうのが分かっている場合、「救護すべきか」を考えてみる必要がある。分かりやすいのが、雛が地面に落ちていて、すぐ近くに猫やカラスがいて、餌食にされるのが一目瞭然という場合だ。「自然の生態系は、食う食われるの循環からなりたつのだから、それでも自然のままにしなければならない」という考え方もある。だがそれは、少なくともわたしの場合、「愛するもの、弱いものは、当然守りたいでしょう!」という自分の人道にあまりにも抵触する。猫やカラスが近寄らず、しかも雛の親が見つけられるような場所にそっと雛を移動するというのがベスト。鳥の親の子に対する愛情は、大抵の場合、ものすごく強いからだ。だから、親が見つけて、その子が成長するまで、見捨てないだろう、という可能性に賭ける。
 だが、そんなベスト・ケースばかりじゃない! どうすればよいか判断がつかなかったり、「このままでは絶対死んじゃう」と思えるケースも多い。そういうときは、「保護したら何か出来るか」も考える。まず、捕まえられるか?捕まえたら何に入れて? 食べ物はどうするか? 野鳥は種類によって食べるものも違うし、雛の場合、成鳥とはまた異なる。さらに、ちゃんと自然の中に復帰させられるか? そのために、どうすればよいのか?
 それから、大事なことだが、野鳥を捕獲することは法的に禁じられている。理由あって救護する場合も、ちゃんと届けなければならないが、当面のケースでは、どういう手順を取るか?

そうです。ただ「保護する」という考えだけで動いてはだめなのだ。保護すれば、その命についてどう責任を持つかが問われてくる。

メジロ自体、小さな可憐な鳥であるが、その雛のさらに小さな頼りなげな様子を観察しながら、わたしの頭の中には「親どり~ 今すぐこっち来い!」とか、「この子が木からおっこったとしたら、巣がかけられる木と言えば、どれだ?」とか、「メジロって、果物とかすり餌とか食べるんだよね? でもこのくらいの幼鳥は?」といった考えが、すごいスピードでぐるぐる回っていた。

そっと近寄ろうとすると、その子は負けん気にひょいと逃げ、草に止まろうとしてまた落っこちた。あ、こりゃだめかな、と近づくと、今度は、道の向こうの低木の繁みまでぱっと飛んだ。あ~ なあんだ、結構元気だ。繁みでは細枝につかまろうとして、落っこちもするが、またつかまっている。今は、あの小さな翼、濡れていて飛びにくいんだろうが、乾いたら、もう少しは飛べるに違いない。この繁みにいれば、猫も濡れるのを嫌がって中に入らないだろうし、近くでよく見かける悪戯小僧たち(人間)も、気づかない可能性が高い。あとは、親鳥だが -- 雨がやんだばかりで、雛がここにいるのだから、親鳥は雨に退去していても、近くにいるのではないか?

わたしは、「ものすごく可憐なこの子を、絶対に助けたい。死んじゃったりしたら嫌だ」という強い気持ちをぐっと飲み込んで、この状況なら、そっとしておけば、助かる可能性は高い、と判断した。手を出せば、「誘拐」になる可能性も高い。それに、この場合、保護しても、責任もって命を生かし、自然に帰し、この子が幸せになる、という保証はしてやれない。そちらのリスクも高いことを自覚せねば。

メジロの雛は、「ぴろぴろっ!」と鳴いてわたしとコンタクトを取ってくれたが、「大丈夫?」と近寄ったとき、飛んで逃げた。あの繁みにいるというのがこの子の選択だ。この子の選択を尊重しよう。

黄昏はじめたその場を立ち去ることを決意して、草むらのほうに「生きろよ~!!」と最後に声をかけた。

それが一昨日のことで、それでも今でもとっても気になる。蝉の降りしきるように鳴くその緑陰は、今日は鳥の声がしない。

それにしても、メジロ自体好きな鳥であるが、雛はまた、格段と可愛かったなあ。良いものに出会えた。それに、雨上がりの繁みの中で、長時間にわたり頭を使う判断をして、したたか蚊に食われた。
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小鳥とダンス

連日の猛暑だというのに、gaeaちゃんが換羽を始めた。家族となってくれたときから、換羽の時期がずれていたが、もう、季節感しっかりしてよ、gaeaちゃん。暑いので羽が抜けても保温の心配はないが、体力をつけてもらおうと、小松菜・青硬菜・胡瓜のほかに、食欲増進のため、人間のためには絶対買わない高級メロンを買って来てお出しする。小露鈴はすぐに食べ始めたのに、gaeaちゃんは食べない。そこで、冬に良く食べるサツマイモの代わりに、南瓜を蒸してスライスしてお出しすると、小露鈴は食べたのに、gaeaちゃんは ・・・ 南瓜スライスの黄金色に驚いて止まり木からばたばた、あたふた、「怖い」の全身表現 ・・・!! gaeaちゃんもう嫌! あなたのための高級メロン、あなたのための有機栽培南瓜なのに。

いつも、とりさんの残飯整理係のわたし。でも、とっても美味しい、自分のためには絶対買わない高級メロンを楽しめた。

換羽時(通常5-6月)は、小露鈴の体力低下がいつも心配になる。だが、まっとうな時期にすっかり換羽が済んだ彼女は、今は元気元気。
 村松健さんのCD『水の中のピアノ』をかける。澄んだ音色のヒーリング系のピアノ曲が入っている。3曲目の「森へ行こうよ」という曲は、ゆっくりのんびりした楽しいリズムのピアノ曲で、村松さんのノーテンキな「ララララーララ ンーンーンー」というハミングが入っている。小露鈴が元気なので、この曲のとき、一緒にダンスを踊った。

えっ?! 文鳥がダンスを踊るって? はい、文鳥のオスは求愛のとき止まり木をぴょんぴょん跳ねてダンスを踊ります。でも、ここで言っているのは、「森へ行こうよ」の曲に合せた小露鈴(メスの文鳥)と人間のダンス。音楽で踊る芸術的なダンスです。

本当に踊るかというと、実は微妙だ。小露鈴がわたしの腕に止まり、わたしがそのまま、部屋の中をくるくる回り、ゆっくり優雅に(自分で言う?)小露鈴の止まる腕を左右や上下に揺らす。両手を開いたり閉じたり。

それでは、鳥は止まっているだけで、人間が踊っている(つもりな)だけじゃないか?! う~ん、微妙なんです。

小露鈴はじっと止まっている。自分が踊っているわけじゃない。だけど、この「じっと止まっている」というのが、彼女としてはすごいことなんです。

だいたい、普段、小露鈴はちょっともじっとしていない。人間の意識のスピードよりはるかに早くちょこまかしている。今、頭を掻いていたと思ったときには、飛び立っている。わたしが立ち上がるより先に、わたしが行こうとしているところに飛んでいく。
 朝、わたしがヨガをしているときはすごい。わたしは、小鳥とヨガが出来るというのは、(自分では)たいした芸当だと思っていて、人にも自慢し、いつかそういうヨガの流派を立ち上げたいくらいだ。ヨガのポーズは、手を上げたり、そったり、足を上げたりする。からだの動きに合せて、そこに意識を集中する。小露鈴は、そういうわたしの奇妙な動きに、雛のときから慣れてきた。小露鈴としては、同じ手に止まっていても、その手がひっくり返ったり、頭の上に上がったりする。彼女は、そうしたからだの動きに合せ、上がった手や足の先にちょこんと止まり、意識を向けている部分のどまんなかに、いつも居ようとする。

 *** ただし、小鳥とヨガをするのはすごく危険なので、絶対薦めない。
     小鳥が「今、背中のどの辺に止まっていて」「次に何処に移動しよ
     うとしているか」が即座に感じ取れるのでない限り、絶対やっては
     いけない。人間が動いているとき、小鳥は時として、人間としては
     絶対来ないだろう/来てほしくないところに、急にもぐりこんだり
     するからだ。そんなときは、声も立てないので、人間が気づかない
     で動き、不慮の事故になる可能性がある。

     小鳥と付き合うときは、小鳥という相手だけに集中しているのが、
     事故にならないために大事だ。真似しないでください。

そう、人間の意識が何処にあるかについて、小露鈴は非常に敏感だ。自分が訴えかける声で鳴いているのに、あるいは飛びついているのに、それでもわたしが本やパソコンに向かっていると、彼女は必ず邪魔をする。gaeaちゃんに話しかけていると、かならず彼とわたしの間に入ってくる。
 要するに、彼女が必要とするとき、わたしはいつも、彼女に意識を向けていなければならない、というのが彼女の言い分だ。(これは、gaeaちゃんにも当てはまる。小鳥たちはわたしが彼らに意識を向けない限り、邪魔したり鳴いたり暴れて訴えたりする。ま、人間の中にも多少そういう人いるかな)
 一番顕著なのは、携帯電話である。携帯電話をかけていると、不満そうな鳴き方が始まり、特に小露鈴は「それだけはやってほしくない」ことを始めたり、人間の皮膚をほんの少しつまんで噛み付き始めたりする(これは痛い)。それでも話を止めず、話に集中していると、携帯電話を持っている指を噛んでほどき始め、終いには携帯電話とそれを持つ手の間に、どうにかして潜り込んでくる。こうなると、彼女のからだへの電磁波の影響が心配で、わたしは電話を切らざるを得ない。

話が長くなったが、つまり言いたかったのは、(人が)ダンスを踊っている間、小露鈴がじっと人の腕に止まっているということは、かなり特筆すべきことだということなのだ。
 しかも、これが村松健さんの「森へ行こうよ」という曲のなせる技だということも、わたしは言いたい。どんな曲、どんな踊り方でも良いというわけではないのだ。たとえばその昔、Dionne Warwickの「Heartbreaker」という曲を乗り乗りで歌っていたら、彼女はものすごく怒ってわたしに飛び掛ってきた。他の曲でも試したが、とにかく「Heartbreaker」をわたしが歌うのがものすごく嫌いだ、ということがはっきりと分かった。

でも、いったい何故? 何故、「森へ行こうよ」ではじっと”(人間の)踊りに身を任せて”いてくれるの? 当事者のわたしは、「一緒に踊っている」楽しく嬉しい気分になる。
 ヨガでもそう。手や足を上げ下げしているときは、さっと意識を向けたところに飛んでいって、「わたしが親分」といった感じで止まるのに、人間が瞑想を始めると、じっと掌の上に座って、落ち着いて穏やかにしている。
 これもわたしは、「一緒に瞑想している」と感じてしまう。

異種間コミュニケーション研究としては、小鳥と人間との相互作用(やりとり)でさえ、そこで何が生じているかを探っていくことは難しい。「相手」として関係を結び、しっかりコミュニケーションをしているとわたしが信じているようなことさえも、「コミュニケーションなのか(人間側の)マニピュレーション(=操作:たとえば『刺激と反応』とか『餌付け』とか)なのか」と著名研究者に一言の元に拒否された。確かに、小鳥に見える世界と人間に見える世界とは違う。
 だが、共に生きるということは、異なる世界に生きる他者と何ごとかを共有していこうとすることではないのか。さらに、接点や共有できる何かを創っていこうとすることではないのか。
 小鳥と共に生きていたい。そのためには人間側の決め付けや思い込みに留まっていないで、小露鈴やgaeaの声をもっとちゃんと聴きたい。

それにしても、以上のように「小鳥との対話」の研究でさえ難しいのに、それを超えて「小鳥とダンス」「小鳥との瞑想」で一体何が生じているのかを探りたくなってしまったのは、無謀? 

小露鈴とダンス


     Shall we ダンス?
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こんこんと湧き出でる綺麗な水流

一昨日は休暇を取って、茨城県と福島県の県境、花園(はなぞの)にお住まいの友人ご一家のところへ赴いた。朝早く<ひたち野うしく駅>から常磐線を延々と北上し、10時過ぎに到着。出迎えてくださったのは、夫妻と娘さんご一家の懐かしく優しい笑顔。ずっとお目にかかりたくて、でも遠さ故に、なかなか機会を設けることが出来なかった。

電車で北上していくと、同じ茨城県でも、ぐんぐんと景色が変わっていくのが見て取れる。まず、水戸までの田園風景。那珂川を過ぎると、樹木の植生がちょっと見慣れなくなっていく。背が高く生い茂る樹層にぐっと厚みが出てくるのだ。水戸のあたりから、空気に海の匂いが混ざり、北上すると海風のようになって、爽やか。浅緑のこんもりした竹林も、目に喜びを与えてくれる。
 さらに進むと、海が近くなる。森林や小高い山が見えると、いくつも川がある。日立市のあたりで、「遠出のわくわく感」が沸き起こり、高萩ではもう、旅ごころに弾んでしまう -- 「いいぞ茨城県!」(やっぱ自然が好き)

そういうわたしをご存知のご一家は、駅から、豊かな自然が残るという花園渓谷の雑木林へと向かってくださった。途中、ご所有の畑の一つに立ち寄って、夏野菜の豊かな実りを見せていただき、農作業について教えていただく。玉蜀黍、胡瓜、南瓜、トマト、隠元、茄子、胡麻、エゴマ、夕顔 -- まあどれも見事に実っている。高い山々に囲まれた静かな土地は、よく手入れされて、涼風が渡り、土も日当たりも良い。空気も美味しい。こんなところでの農作業して、(大変な面は多いだろうし、冬は厳しいだろうが)「健やかでまっとうな人間」になりたい。昼寝なら、尚したい。

雑木林は、あまりにも美しくて、それ故、人が踏み入れて荒らしてはならない、とご一家も数年は訪れていないそうだ。(人が森を荒らす悲しさを、わたしも知らないわけではない。また、歩くことでダメージが大きいという苔のあるお寺や、一人入るごとに損なわれていくという尾瀬には、もう行かない)。そんな場所を、そっとそっと頭を下げて、気をつけて気をつけて、繊細に繊細に歩く。

踏み入れると、長袖でも良いほど涼しい!

そこまでの道中、ここにもあそこにも、至るところに、澄んだ水が豊かに流れる渓流があった。ここのところ、雨が降らず、人里のほうは乾いているのに、あとからあとから、たっぷりの水がこんこんと流れていく。水は透明で、川底の丸い石の色が映るくらいだ。早瀬も滝もあった。水音が、さまざまなハーモニーを奏で、鳥の囀りや、蛙の鳴き声、蝉の声に混ざっていた。

水不足気味なのに、なぜここだけは、こんこんと流れる豊かな水流があるのだろう? 雑木林を歩きながら、ようやく分かってきた。樹木の多くは、太いブナの木。それにシデやコナラなどが混ざっている。ブナ林の上、山の上の方は、植林された杉などもあるが、とにかく太い大きな木がずっと上の方まで、根を張っている。このあたりは、海から急に切り立った樹層豊かな山で、険しくて人も入りにくく、昔からこのままだという。いくつか高い山があり、茨城県一高い山もあるという(あれ、筑波山じゃなかったの?)

高萩のあたりから、有名な渓流がいくつかあるが、それは、海から切り立った高い山々と、その山々の豊かな木々のおかげだという。

知識としては持っていたが、う~ん、やっぱり木って偉い! 
こんな綺麗な流れを、いくつもいくつも生んでいるんだね~

「もう下界には下りてきたくない」という気持ちだったが、懐かしいご一家の家を訪ね語り合うという楽しみがある。戻って、畑の新鮮野菜と、手作りのお豆腐と、玄米ご飯を中心とした、豊かで美味しい食事をいただきながら、環境や、生き方や暮らしへの想い、近況報告などを交わす。

ご一家とは、その暮らし振りから学びたいという一行の一員として訪問させていただいたときから、親しくしていただけるようになった。環境や地球上での人々の暮らしに思いを馳せ、手作りの家は外の自然を感じられるつくり、電化製品は極力置かない、テレビはなく黒電話だけ、買い物は控え、環境や地球上の他の人々の暮らしを損ねるような商品は買わない -- ご自身で納得された良いことを実行されている。こうしたことは、良いと感じても実行するのが難しいというのが一般的な反応かもしれない。また、それゆえ敬遠するという反応もあるかもしれない。だが、ご一家とじかに接していると、暮らしや時間、自然と接したゆったりとした生活こそ「豊か」だということをストレートな真理として感じられてくる。

それはひとえに、謙虚で、もの静かで、穏やかで、気負いや無理のない暮らしの姿があり、それが染みてくるからだろう。語り口も物静かでゆったりとやさしく、自然体でいてもそのまま受け止めてくれる安心感がある。「足るを知る」「無理なく」「しまつの良い(=整理されて、つつましい)暮らし」や生き方が、居心地よく伝わるのだ。ご一緒して、生き方からにじみ出た良い顔、良い立ち居振舞いの美しさに気づく。実はとっても偉いと想うのだけど、近づきにくいわけではない。

 かなわないな。
 これが「本物の暮らし」「人らしい人」なんだろうな。
 でも、どうにかすれば、ちょっとだけ近づけるかも。
 う~ん、わたしなりに、bird sanctuaryの空間で何か描いてみようかな?

電車時刻に迫られて、そんなことを感じながら、常磐線を南下した。
木々に守られた豊かで澄んだ水流と、自然と調和した暮らしにふれて、こころの奥から潤った、夏休み一番の一日だった。
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小鳥を呼ぶ水笛

そろそろ、ヨーガとウポワズ(断食)を教えていただいている先生に、
my bird sanctuary 計画についての近況報告をしなければと考えて
います。日本とインドの掛け橋となり、多くの病めるインド人を助ける
という偉業を遂げた、本当に偉い方です。

サイトのmy bird sanctuaryの記事では直接登場しませんが、サンク
チュアリを計画する上で、精神的な面で、言葉にならないくらいお世話になってきました。どのような場所が良いかについても、ご助言をいただいています。

この先生のご助言で土地を選んだ陶芸家さんは、その後見る見る精進されて
すばらしい作品を創るようになったそうです。先生は、その陶芸家さん一家に
30年前トルコの田舎で購入されたという、水笛を再現してもらえるよう、依頼してくださいました。

「小さな水笛ですが、私がインドの原始林で小鳥を呼ぶために用いていました。吹き方がなれてきますと、色々な小鳥に合わせることが出来、また小鳥が集まってくるのです」

あ~どんな水笛なのだろう? どんな音が出るのかな? 
音のヴァリエーションをどうやって奏でるのかな? 
是非みたい。はっきり言って、絶対ほしいよ。

インドでは、生息地を追われたトラを匿い、ご自分の活動の場所でしばらく
トラと暮らし、夜はそのトラと眠ったという先生です。これ本当の話!!
だから、この先生が水笛を吹いて、小鳥が集まってくる、というのも
とてもリアリティがある。

水笛の力を借りるなら、わたしも -- どこまで行けるかな? 

 20050801154106.jpg


(写真は、ナイチンゲールとブラックバードを呼ぶ道具です。イギリス製)
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