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hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

筑波山西に住む友人のところに、久しぶりに遊びに出かけた。
暖かな日で、昼過ぎ、森を抜け小貝川の堤防まで、田園をつっきって、一緒に散歩した。幾度かお邪魔して、すっかり見知っている“日本人として懐かしくなるような”田園風景だ。

この夏には、ここで、生まれて初めて蛍を見た。農薬の空中散布による被害で10年間もの間、絶滅したと考えられていた蛍が、葛の葉が厚く覆う葉陰で、少数ながら生き延びていたのだ。

蛍が生きていないか、ずっと探していてようやく発見した友人は、感動の余り、すぐに電話をくれた。

夜に入った頃、葛の葉陰でひっそりと、儚げな光が灯った。息をするだけで、消えてしまいそうな光だ。

「昔はもう、田んぼの上からずっと、無数の蛍が飛び交っていて、とても明るかったよ。つかまえて、蚊帳の中に放って、灯りにした」と友人は言う。
「先生(=わたしのこと)や子どもに、つかまえて見せてあげようと思ったけど、この弱々しい光を見たら、つかまえようなんて思えなかったよ」

ようやく生きて、闇の中に放っている小さな光は、本当に微かだった。

そんな夏の想い出を辿りながら、川からの風の防風林となっている森の下を流れている小さな小川沿いを歩く。ガマズミが赤い実をつけている。
 ガサガサと水際の藪の中で音がする。
 そして、<チッ>と鋭い声。
 鶯だろうか? それにしては、物音が続くではないか。

野鳥なら、人影に、一瞬にして逃げていくであろうものを、ガサガサの音が続き、また、その音も、小鳥としてはやや大きいような気がする。それより大きい、雉かコジュケイ、あるいは野生動物なのか?

友人は、小鳥の影が森の中に入るのが見えたという。とすれば・・・

その瞬間、”この場所から、早く立ち去ってあげなければ”という気がした。よくわからない -- 知識も経験も浅いのだが、枯草や低木が集まったこの辺り、もしかすると、野鳥の巣があり、子育て中なのではないかと直観したのだ(← 違っているかも)。でも、その途端、心配に右往左往する親鳥、そして逃げ惑う雛たちのイメージが浮かんだ。

好奇心から、どんな生きものだかわたしが探ろうとしている、その間、その生きものが不安や怯えを感じている気がした。

そっとしておいてあげなければ--。その場を立ち去り、わたしたちは田んぼを通って小貝川へと歩き、堤防に登った。
 川の水は、随分と枯れていて、葦等の草の中にホオジロや雀が群れていた。

風に吹かれてしばらく堤防を歩き、また田んぼを突っ切ろうとしたときだ。

蛍光色のオレンジのベストを着用して、釣りざおのようなものを抱えた男性が、やっぱり田んぼを突っ切って、防風林の方に歩いていくのが見えた。
 「釣りかしら?」とわたしは思った。
 友人と、しばらく会話を続けた。

だが、突然、《ズドーン》と激しい音がした。

男性が、銃を構えている。
防風林から、暗いオリーブグリーンの色をした野鳥が飛び出し、まっすぐ道沿いに飛んでいった。
男性は、そちらに筒先を向けている。足元には、あ、あれは猟犬だ。

こんなところで?!

鳥は? 鳥は撃たれたのか?! さっき”そっとしておこう”と思った親鳥か?!

からだが冷たくなった -- 全身高速急冷凍みたいだ。“血の気が引く”ってこういうことだ、きっと。目に見えない<からだの軸>が崩れ落ちて、わたしは立っていられない・・・

どうして、こんなところで?! こんな人里近い、平和なところで?! 
今の今まで、生きものたちはみんな、ぽかぽかの冬の太陽を浴びた草むらや田んぼや森で、冬支度に忙しくしていたのに。

悲しみも怒りもまだ出てこない内に、涙が出て、だけど血の気が引いて、立つのがやっとだ。そう言えば数日前、親友から
 「あなたには、早く注意しなくちゃ、と思っていたの」と言われたばかりだった。
 「狩猟解禁、始まったでしょ。しばらくは山に入っちゃだめ。最近、嫌な事故あったでしょ? もう、いや~ね、こんなに自然がなくなっても、まだ殺したいのかしらね。あなたは、絶対山に行っちゃだめ」
 彼女は、わたしを心配し、守ってくれようとして、こう言っていたのだ。

銃の音と共に吹き飛んで、ばらばらになってしまったかのような自分を、必死でまとめた。鳥は、どうなったのだろうか? ハンターは手ぶらで、猟犬もぶらぶらと歩き回っていた。空中に溶けてしまいそうなほど薄く感じられる、わたしの輪郭の背後から、友人の力強い声がした。「大丈夫。撃たれていないよ」

わたしは、銃が怖い。ハンターも怖いのだ。彼は違法なことをやっていたのだろうか? わたしは彼に、違法だろうがそうでなかろうが、食って掛かるべきだろうか。狩猟解禁の期間、猟区で、指定された野鳥を指定数だけ撃ち取ることは、合法だ。わたしは彼に、何と言えばいいのだろうか? ここは人里だから、危ないからやめてくれと頼んだらどうだろうか? 彼は、土地の人で、いつもここで撃ってきたと言うかもしれない。たとえ立ち去ってくれたとて、もっと山奥に行って、そこに棲む鳥たちを仕留めるだろう。

そのハンターは、友人に会釈をして、その後わたしにも何かの言葉をかけた。わたしはただ、じっと彼の目を見ていた。普通のおじいさんだった。そのまま通り過ぎた。猟犬は、道沿いの民家の庭に入っていく。ハンターが追った。

そのとき、まるで絵物語のように、道路をパトカーが突っ切ってきた。二人の警官が乗っている。友人とわたしは後を引き返して、パトカーが止まるかどうか確かめた。警官が、ハンターに何か言葉をかけていた。

「誰か通報したんだね。ま、鳥も撃たれなかったし、これでヨシトシヨウ」
と友人が言った。

小貝川のほとり

  小貝川のほとり・・・こんな平和な地

意気地なし -- わたしは、銃が怖い。ハンターも怖いのだ。

本当に小さな子どもだった頃の、強烈な記憶がある。猟に出かけた人が、うちの台所に意気揚揚とその「成果」をもってきた。ティッシュペーパーの上に血を流して仰向けに乗っている、小さな鳥だ。まだ暖かかった。

まだ暖かかった。

わたしはこの記憶を、<hearing the unheard voices>の仕事をしたいと決意し、サンクチュアリ創立の夢を懐いた、ここ4~5年まで思い出すことは無かった。何十年も、封印されていたのだ。

-- 小さな子どもは、その小鳥に、ずっと空を飛んでいて欲しかった。森で囀り、光と戯れて、生きていて欲しかったのだ 
-- でも、その子どもは、ハンターが怖かった。何一つ言うことが出来なかった。その場に、自分が安全に存在するためのことで、精一杯だった 

あるときまで、わたしは、その小さな子どもの卑屈さを、とても呪った。生きものを心底愛する、真に尊敬すべき人々、例えばジェーン・グドールさん(サイト参照)だったら、その現場で、ただちに、大声をあげて助けようとし、いつだって、命を救うために出来る限りの事をするだろう。彼女は、本当に幼い頃から、そうやって命を愛し続け、それを支援する人々に囲まれてきた -- そう、「何も言えない」子どもの卑屈さを呪うだけでなく、わたしは、命の大切さとまっすぐに向き合える境遇で育てられた、グドールさんのような人々をうらやみもした。

この記憶を、今になって想い出したことには、どんな意味があるのだろう?

次には、わたしは、何か言えるのだろうか?

「命ある生きものなんです。お願い、この子も生きていたいんです」

ハンターが、銃を構えたちょうどその瞬間だったら、合法であれ何であれ、一羽の小鳥の命が、ともし火のように光る瞬間となるだろう。明日もまた空を飛び、家族と愛を交わし、緑の中で光を浴びて囀っていられるはずの小鳥が、次の瞬間に獲物としてのムクロになるのだ。

ああ、お願い、生きていて欲しい。

もちろん、この時期、猟は合法です。
いろんな見方があると想います。
ハンターさんの中には、しっかりした哲学のある方もいます。
昔からの狩の伝統をもつ民族を、攻撃するつもりは毛頭ありません。
マタギさんは、山を守る大事な仕事をしています。
自然保護の見地からしても、猟などより、問題なのは、人間による無意味な開発や化学汚染の方です。

でも、愛する人が目の前で、撃ち殺されようとしていたら、どうしますか? 小鳥の声を聴き、「対話しよう」と決めてから、本当に小鳥の声を聴こうと耳を澄ませるようになってから、わたしにとって小鳥は、大切な<相手>となりました。必然的に「愛する人が目の前で撃ち殺されようとしている」事態に、沢山遭遇することになりました。

記憶がよみがえったのは、今、サンクチュアリ創立にあたって、これからはその辛さ、自責の念を贖えるようになっていくからなのではないかと想っていた。この子どもは、次には、大切な命を救うために、まっすぐな行動をとる -- そう、何とか助けようと、懸命に駆けていくのではないかと信じたいのだ。無力であっても、自分のこころに素直に「生きていてほしい」と言うのだ。

発砲の後、友人には大変申し訳ないことに、わたしは何をやってももう駄目で、見る影も無くしょげた気持ちはもう戻らなくて、せっかくの散歩も台無ししとなってしまった。

そして -- サンクチュアリを築いていくのも、わたしは怖い。また怖くなってきた。そこは山里だから、狩猟ばかりでなく、(違法な)霞網猟、メジロ捕り、狭い竹篭に閉じ込めた野鳥飼いをする人々と、出会うことだろう。そんなとき、わたしはどうするのか。いろんな辛い目にあうだろう。自分の無力さや不甲斐なさを、また呪うこともあるだろう。何より、こんなに愛する小鳥たちの命が奪われていくのを、見たくない。

でも、少なくとも、「生きていて欲しい」と願う、子どものこころは絶対に守っていこう。そのこころを芯に据えて、出来る限りの事をしよう。そして、子どものこころだけでなく、成熟したこころも持とう。
 猟をする人々が地元ということも多いので、いろんな人たちに対して、ただ怒りや敵意や対立をぶつけることはしたくない。かえって逆効果だ。昔からの慣わしなら、それに対してわたしは新参者だ。あくまでも、愛と調和と理解を信じて、そういう人たちとも、接したいと想う -- もっとも難しいことだけど。そうでなければ、命がつながっていくことはできない。サンクチュアリの光も広がらない。

すみません。情けないことに、まだ、高速急冷凍でフリーズしたままだ。今はアルベルト・シュヴァイツァーのこの祈りの言葉が痛い。

  重労働をしいられ、じゅうぶんな食料があたえられず、
  虐待されている動物たちのために。とらえられ、
  鉄格子に閉じ込められて苦しんでいる、すべての生きもののために。
  追いまわされ、みすてられ、おどかされ、飢えているすべて
  のもののために。死を余儀なくされているすべてのもののために。
  ..... そして、それらの冷酷な行為を行っている人のために。
  どうかかれらに、慈しみのこころと、あたたかい手と、
  やさしいことばがかけられますように。
     (アルベルト・シュヴァイツァー)












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笠間の天地3 ~魂こめて~

笠間で、不動産屋さん・建築士さんと現地を検討した後、不動産屋さんといつものように『ギャラリー 陶歌』さんにお邪魔しました。ここは、大規模ではないけれど、笠間の陶芸家さんの粒よりの作品が集まっている場所。それだけではなく、若手・実力派、いずれも優秀な陶芸家さんが気軽に訪れ、若手たちが育っていくのをかいま見ることのできる場所。さらに -- 不思議な出逢いがある場所。

『陶歌』さんの、温かく包容力のあるお人柄ゆえ、しかも直観が冴えていらっしゃることも関係して、何故か不思議なほど、素敵な人たちが集まります。

このお店を通し、バードサンクチュアリ創立について、地に足をつけた実際の弾みがつくきっかけが生まれ、育ちました。しかも、この希求が天からも見守られているような気持ちに、いつもなります。

お店の傍らの、居心地の良いコーナーで、時間のある人に美味しい珈琲やお茶を淹れてくださいます。『陶歌』さんのご友人やお客様どうしが、素敵な出逢い・会話をしていくのを、ゆっくりと見とれて、味わうことができます。

不動産屋さんと到着したときも、大変面白いお客様たちで、この場は賑わっていました。そして何と-- 『陶歌』さんは、久しぶりに訪れたわたしの都合を聞いてくださって、かの写真家、絹針さんを呼び出してくださったのです。(ブログ9月10日 『愛しき白鷺』参照)

そう、天女のような舞いや、黄昏の空の飛行、雑木林の中での愛の交換や子育てを、(彼の前でだけ)間近に見せた、あの白鷺の写真集の -- サギと恋人どうしになった -- 写真家の方です。

30分くらいで、水戸在住の絹針さんは、ひらりとやってきてくださいました。今、写真のサイトを構築中で、ここで写真を見たり、写真集購入の申し込みをしたりできそうです。そんなことを少しお話した後、その場にいた皆さんに、撮影にまつわる不思議なエピソードを、またまた披露してくれました。

白鷺と恋人になった話は以前にしましたよね? (9月22日) その他、中国に見せられて毎年撮影に出かけられる話などあって、次に、何と、”龍を撮影した”お話を、伺ってしまいましたよ! 

龍は架空の動物でしょ? --って、それはそうなのだけど、かつて龍が現れたと記された丁度七百年後に、とても不思議なめぐり合わせがあって、選ばれたとしか言いようのない同月同日に、ある山寺で撮影されたのです。それがいつで、どういう経緯で、どんな写真なのかは、ここに書くより、是非彼のお話を聴いてください。感動します。
 その龍の正体は? -- 「正体」なんて大変失礼な言い方です。昔の人の言う龍はきっと、こうして現れたに違いないし、わたしもそれが「龍」なのだと想うのです。

-- なあんて、曖昧な書き方ですみません。ただ、龍を撮影してから、絹針さんには不思議なことが続くという、そのことに感銘したので、書きたかったのです。こうした不思議で、神秘的な出会いに対して、真摯で誠実にこころを注いで、一心に撮影していらしたから、写真でこれほどフレッシュな世界が切り開けたのだと感じます。撮影が、修行で、生き方で、あるということでしょう。修行や生き方が、撮影であるということでしょう。

どんな仕事であれ、一体となれるほど、一途に出来ればいいな。

白鷺の写真と、中国の山水の写真を焼きこんだCDをいただきました。素晴らしいです。後者は、ちょっと日本人には想像もつかない -- 中国の山水画って本当だったんだ、という感じです。ただ、日本の感覚からして違和感があるかというと、そうではなくて、“懐かしい源に還ってゆく”ような感覚にとらわれます -- 何だかこれらの厳しい山々、岩肌、雄大な流れ、は、東洋の崇高な精神の源のように感じられます。

最後に、本ブログ、サイトの写真について「ピンぼけが多すぎ」「うまくとれないと、あきらめちゃっている気がする」とお叱りを受けてしまいました。それは、正しい!! そのとおりです。技術も無いし、操作もわからないから、諦めきって、“記録のためだけに”載せていたようだと大いに反省しました。(一応、沢山撮影したうちの、一番マシなのを一生懸命選んだんですけれどね)
 魂が入っていないんです。痛いです。でも、本当です。

読んでいただく大事なメッセージ、写真のひとつひとつにも、魂込めなきゃ。

今回の笠間行きは、いろんな大切なことを受け止められた、旅でした。



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笠間の天地2 ~再生~

今年は、ちょうど誕生日に、かねてから協力してくださっている不動産屋さんから電話がありました。バード・サンクチュアリの新候補地があるとのことです。

しばしモラトリアムとなっていた候補地探しですが、一歩ずつの歩みが大切と考え、電話をいただく少し前、この不動産屋さんに便りを出しました。

誕生日の報せは、何だかラック(=幸運)を告げているように感じられました。これを、探していた土地が見つかる兆しと捉えてよいのかどうかはともかくとして、少なくとも”歩むための道”が、再び切り開けた感じです。

この数ヶ月、わたし自身は、何となく混迷の沼に入ったような -- 新しい方向性が見つからず、どこに進むにしろ、非常に不確かであるような感覚にとらわれて -- しばらく、静かにモラトリアムでいたいと、そんな気がしていました。いろいろと進めてみても、何ら直観が得られないこと、そして、(そうであっても、情熱と共に突き進むような行動力があればまだしも)行動力が湧き出る源泉からも、もう力が湧いてこないような、そんな気がしていました。

3~4年越しに、いろいろ試みたけれど、未だ暗中模索であること。一度は、本気で進められそうであった、筑波山の西側、明野の土地を、考え抜いた末にあきらめたことも、関係しているかもしれません。

場所を探して、そのたびに学びはあるのですが、学べば学ぶほど、現実的な条件における困難も見えてきます。調子の悪いときは、不安も湧きます。今、一緒に暮らしている小鳥たちと、自分自身を守るだけで、精一杯、という気持ちになってしまいます。
 さらには、気持ちが沈静すると -- <いま、ここ>にいる自分すら”サンクチュアリのありよう”を放射する力が枯渇しているのに、一体「サンクチュアリの光を広げる」ことなど、できようか、という思いにまで、囚われることもあります。

(正直に書きました)

ところが、そんな期間には、不思議なこともあるのです。
上のような気持ちは全く伝えていないのに、この期間に(多分、こういう期間だからこそ)大変敬服する人々から繰り返し、「もうじき実現しますね」「もう、時期ですね」「もうすぐでしょう」と言われたのです。

さらに、ここ数週間は、申し合わせたかのように、真に尊敬する幾人かの方々が「笠間という土地はいいのではないか」と声をかけてくださったのです。

-- 知らず知らずのうちに、励ましてくれているように。
-- まるで、人々を通して、大いなる何かが、力を注いでくれているように。
-- ちょっと燃料切れしたところを、少しずつ満たしてくれるかのように。

初冬の空


そして、また、歩き出せます。
再び、笠間に行ってきました。

新しい候補地もさることながら、まず、不動産屋さんにお願いして、以前から気にかかっている土地を、地元の建築士さんに見ていただきました。そこは、人の入っていない自然の豊かな場所でありすぎて、(1)人が入ることによって自然や環境を破壊することになる、(2)人が住み、暮らしていくのは難しい、という二つの困難から、いったんはあきらめた土地です。(詳しくは、サイトに書きましたので、良ければご参照ください)
 あきらめた後、しかしながら、他の候補地を見ると、やっぱりそこの方が好きだ、という気がしてしまうのです。

そこで、実際に、どの程度、自然を切り崩したり景観を壊したりすることになるのか、そして、現実に、今の建築基準で小さな小屋が立つのかどうか、しっかりと確かめてみることにしました。それで、やっぱり無理があるなら、その場所と地続きで、どのくらいまで里に近付けば、条件が合うのかを見極めたいと考えたのです。
 笠間の気候風土と住宅の関係をよくご存知で、実際の作業にも取り掛かってくださりそうな、地元の建築士の方が示すことなら、間違いはありません。

そして現場に行って--。

いろんな意味で「目から鱗」のご教示を戴いて、その場所の幾つかのスポットで、「ここなら、建ちますよ」「いや、そんなに大規模な重機を入れなくても、大丈夫ですよ」の太鼓判。後は、現実のさまざまな条件がクリアできるかどうかです。

だから今、「順風満帆」といった気持ちかというと、そうではありません。条件をクリアするための作業もそうですが、環境・住居・管理の仕方など、いろんなことを整理しなければいけません(未だ、混迷中のわたしです)。帰りの高速で、さまざまな不安、今までよりかえって底の深い不安が恐ろしく蠢いてる、そんな自分のこころと真っ向から向き合わざるを得ませんでした。

大きな仕事をするための精神性も行動力も、普通並み(か、それ以下)で、自然再生のための実践面のことも、命を感じ、繋いで調和していくことも、まだまだこれから学ばなければならないわたしが、一人でできる仕事ではなのです。いや、きっと、誰であれ、一人で出来る仕事ではないのです。

支えてくださる方々、流れ入ってくる力とその源に感謝して進まなければ。

サンクチュアリの仕事では、何度も<闇からの再生>を繰り返していくのではないかという気がしています。
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初冬の雑木林2 ~空気は澄んで~

この時期の雑木林は、静かな中に、かさこそと枯葉の落ちる音がしています。時折、コーンと硬質の音も聴こえ、何の木の実が落ちたのかしら、と辺りを見回します。しんしんと冷えて、静かで-- でも、雑木林の中で少し落ち着き、目が慣れてくると、いろんな発見があって、こころが弾んできます。そして、雑木林がとても賑やかに感じられてきます。

なぜかと言うと -- 大半の木々たちは、赤や瑠璃や黒や紫の大小の実をつけていて、その姿かたちも各々特徴があって、見ていて飽きないからです。S先生のところで、デザートのアイスクリームにかけていただくジャムの原料となる、ブルーベリーやナツハゼの紫の実。マユミやニシキギの、帽子をかぶった可愛い赤い実。今回は、マルバグミの実を見つけて、「渋いよ」と言われたけど、口に入れてみました。うん、一瞬渋いけど、それを通り過ぎると果物系の食感で美味しい。

紫式部

これは、紫式部の実です。さすがに食べなかったけど、野鳥たちはよく食べるよ! ルリビタキも、大好物なんだそうです。

そして、木々だけじゃなく、足元も注意!!

竜胆

S先生には「もう、シーズンオフ。11月半ばの藍の色は、もっと冴えて綺麗なんだよ」と言われましたが、それでも綺麗で清々しい、野生の竜胆の藍。

今回も、焚火をしました。秋に伺ったときには、焼き芋のための焚火でしたが、今回はそれに加え、この暖かさが嬉しい。焚火で暖を取らないと、かなり冷えます。

そして、大好きな焼き芋づくり -- 今回は、薪をくべた焚火でしたが、「焼き芋の場合、枯葉のほうが美味しい」とうかがい、一生懸命、枯葉や枯れ枝を集めました。

枯葉、枯れ枝には困らない雑木林です。グリムやアンデルセンの童話で、小さな子どもが枯葉や枯れ枝を集める場面がありましたね。こんな感じかしら? 確かに、薪をつくるのは大人の腕力が要りますが、小さな枯れ枝を健気に集めるのは、小さな子だってできます。(うん、それで焼き芋がおいしくなるんだぞ、この場合)

またまた、大層美味しい焼き芋が出来上がりました。

その他、お昼ご飯タイムに、お庭の片隅で栽培されている椎茸も、串で焚火にかざしていただいて、焚火の恵みというか、嬉しさというか・・・ 感じました。火を起こし、人が集まって、いろんな工夫が始まって-- 人間は、こうして、歩んできたんですね。(雑木林の自然が好きだけど、その近くで焚火をして、いろいろやっている自分を見ると、つくづく自分が人間であることを感じます。人間のやることの、キーワードは、火だってことも) 

焚火


楽しくて、実り多い、雑木林の初冬ですが、S先生と奥様の表情には、これまでにはなかった翳りが -- 「この季節になると、これから来る、大変な季節のことが思いやられてね」「その点、春はいいよね」 -- 何故か今日は、”春はいい”“春いらっしゃい”をよく仰います。

寒さの厳しさもさることながら、この時期から、風のある日には、筑波山からの冷たい風をまともに受けて、休耕地の砂埃が舞い上がり、S先生のところは空気が黄色や黄土色に染まるほどになるそうです。休耕地に面した西側のS先生の書斎は、部屋中が砂だらけになるため、ついに二重窓を設置したほどで、家の中も、庭も、砂をいっぱいに浴びます。

よく手入れされた豊かな自然、その中での楽しい発見や出来事ばかりでなく、四季折々の自然のいろいろな顔を知らなければ、といつも想います。どんな場所で、どんな条件のときも、平気でいられるか、勇気やアイデアを湧かせて、その土地の自然と向き合っていけるか、と問われれば、わたしはまだあまりにも無知で未熟だと感じます。

鳥さんは偉いなあ。寒いときも暑いときも、豪雨の中も乾いたときも、おなかを満たしてくれる木の実や虫たちがいないときも、自分のいる場所の自然と向き合っている。向き合わざるを得ないんだ。

夕映えの雑木林


初冬の雑木林の空気は、とても澄んでいます。夕映えが麗しいです。
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初冬の雑木林1 ~野鳥の水浴び場を創る~

鳥たちの水浴びの光景をご覧になったことがありますか? 

種類にもよるし、各々の個体によって好き嫌いもあるようですが、一般的に鳥たちは水浴びが好きです。そして、からだの機能を保つためにも、水浴びは大切だそうです。冬でも冷たい水に入って、じゃぼじゃぼやります。

透明な水しぶきをきらきらと跳ね上げて、翼をばたばたやって、一生懸命水浴びをする姿には、心底見とれてしまいます。

でも、自然の中では、水浴びをするときは、いつもの隠れ場所から出て比較的目立つことをすることになるし、水で濡れた羽や翼は重くなります。だから、野鳥たちは水浴びする前は、随分慎重に辺りをうかがいます。

水浴びする池や湖、水溜りが安全だとわかると、今度は水に恐る恐る近付いて・・・ でも、浴び始めると、やっぱり、ばしゃばしゃ、夢中で洗っちゃうもんね。

だから、野鳥たちが外敵から狙われないで、安全に水浴びできる場所は貴重です。そんなところは、入れ替わり、立ち替わり、いろんな鳥たちが水を浴びにやってきます。

もう20年以上前になりますが、大学生の頃、よく山中湖の別荘地にバードウォッチングに行きました。そこには、そんな水浴びのスポットがあって、小さなテントを張って、座って待っていると、数々の美しい野鳥たちがやってきて、かわるがわる水浴びをしてくれました。座っていながらにして、森や山に棲む珍しい野鳥たちの、愛嬌たっぷりの姿を観察できたものです。

小鳥や緑を守る bird sanctuary となる土地が探せたら-- 続く夢はね、野鳥たちの水浴び場を創ること。安心して、盛大に、ばしゃばしゃやってくれるのがいい。小さな鳥たちも、他の種との競合において弱くて気の小さな鳥たちも。そして、いつでも、綺麗な水を確保しておいてあげたい。
 だから、できれば、清浄な水が土地に流れてくれて、土地はその水の流れを、守るような感じが良いな。 ←贅沢かも

エコロジーも考えて、雨水利用、なんていうのもやってみたい。
そのためには、いろいろ勉強しなくちゃ。

そんなこんなで、休暇を取って、行って来ました -- またまたS先生の雑木林。S先生のところでは、夏は、ボーフラがわくのを避けて、水浴び場はやめて、冬だけ、野鳥たちの水浴び場をつくります。ルリビタキ、ジョウビタキ、クロツグミやシロハラ、四十雀、メジロ、ヒヨドリ、シメにカワラヒワ、モズ、ほんとに色んな野鳥たちが、時には何羽も一度に、ばしゃばしゃやるんです。
 「そろそろつくってやろうと思っている」と電話を戴いてから、「今年のジョウビタキが、まだか、まだか、とのぞきに来るよ」というのに、気が気でないけど待ってもらって、やっと休暇が取れたので、池づくりの演習がスタートしました。ジョウビタキさん、遅くなりまして、ごめんなさい!


池:作業前


ここが、夏の間は埋め立てていた、池の出来る場所です。

サイトの方の、my bird sanctuary に書いた、藤本氏の『身近な自然のつくり方』や『野鳥を呼ぶ庭づくり』にも説明がありますが、野鳥だけでなく、蜻蛉などの昆虫や魚、サンショウウオなどが来るように、それぞれの生息環境や条件を理解して、池にはさまざまな工夫をすることが出来ます。

S先生のところの池は、今は冬鳥の水浴び専門。上の写真にある大小さまざまの大きさの石をどけると、最深で70センチくらいの大きな広い穴が掘ってあります。その穴の底面は、水の入り込む側が高く、出口側が低く、という具合に、高低があります。水は、なんとなんと、この池より高い位置に立っているS先生宅の雨どいから、お庭の回遊道を迷路のようにつたって、入り込む仕掛けになっています。
 と、そう伺っても、なかなか納得できません。だって、本当にパチンコ台の中のパチンコ球のような流れ方をするなんて--。でも、雨の日に何度も何度も庭や雨どいからの水の通り道を確認され、またそのデータを基に土地の高低を替えて、その繰り返しで、うまく行くようになったそうです。すごい。
 
水は、もちろん庭の水道からも、ホースで引けます。

穴にはまず、青いビニールシートを2枚、敷きます。そうして丸太で固定します。それから、シートの先は土に埋め込んで、全体を池らしい形に整え、周囲に大きな石を置いて、さらに固定します。そうして・・・ あ、もうホースで水を引いちゃいました。うまく水が溜まって、ちゃんと出口から雑木林の中に流れ込んでいくかどうか試してみます。

大丈夫。うまく池になってくれそうです。水の出て行き方も問題ありません。

そのあと、底面に小さな玉砂利を敷きます。この玉砂利は、昨年、池を”たたんで”から、洗って保存されていたそうです。これは、引き揚げるのが大変なので、うまくいくか確かめてから敷くのです。

あ、池が濁っちゃいました。泥水となっています。

でもこれも大丈夫。入り口からホースで注入される水のおかげで、みるみる澄んでいきます。ゴミを掬い取ります。池底まで綺麗になってきました。
 本来なら、こういう作業は、人工的に水を注ぐのでなく、雨を待ってからやっても良いそうです。S先生宅から、お庭、そして池へと、かなりの高さの違いがあるので、大量の水が流れ、あっという間に池のお掃除もできるそうです。
 でもまあ、数日は雨降りにもなりそうも無いし、一日の演習では、一度に池づくりの過程が理解できたので、感謝、感謝!


池:途中


こんな具合になりました。あとは、数日S先生が様子をみて、うまく行っていれば、青いビニールシートを隠すために、周辺にもう少し小石をあしらうそうです。

そうそう、大事なことがもう一つ!!

その後、池底に大小の石をさらに配置します。大きな鳥も、小さな鳥も、水浴びできるように・・・。また、鳥によって、浅いところが好きなのも、深いところまで行っちゃうのもいるそうです。

どんな鳥が、どんな深さのお風呂を好み、どんな風に水浴びするのか、観察できたら面白いと思いませんか? もう一度、完成図を見学しに、S先生のところに伺いたくなってきました。

それにしても、早くわたしも、 my bird sanctuary で水浴び場を提供したいな。どんな子がお風呂に入ってくれるかな? 銭湯並みになるといいな・・・ 

S先生の雑木林のジョウビタキさん、お待たせしました。もうすぐ、入れるよ~
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瞳のチカラ

「目ヂカラ」って言葉を最近よく耳にする。

目が魅力的、という意味の使い方もあるのだろうが、そればかりではない気がする。「眼力(がんりき/がんりょく)」というと、(1)眼の力、(2)物事の真偽・善悪を見分ける力という意味だが(広辞苑 第四版)、言葉でイメージできることは「目ヂカラ」も同じかな?

う~ん。
それよりも、もっと、ピカッというか、キラリッというか、何か根源的なところ意志の強さ、生きる上での強さを、わたしは感じてしまう。同時に、強い力で、人を引き付けるというか、人を引っ張るような、そんな耀きのある目をイメージしてしまう。

以前にも書いたが、ことば以外のコミュニケーション --非言語コミュニケーション-- の研究の中でも、“目による”コミュニケーションというのは、重要でいて、研究するのは一等難しい。
 今、研究室の中でも<視線によるコミュニケーション>を研究してくださっている学生さんがいるが、とにかく日々私たちがよく使い、よく感じ取っているはずの目や視線によるコミュニケーションも、しっかり(すばやく)観察し、きちんと記録し(これが至難の業だ)、何が起こっているか、その人はどう感じているのかを見極めていくのは、とても大変である。

でも、「こころの鏡」とか「こころの窓」と言われる目というものは、その人がそのときどんな意識でいるか、どんな気持ちでいるか、が一番飾らずに(飾ることが出来ずに)あらわれ出ていると感ずるので、それを理解していくということは、研究としてどうしても挑戦してみたいと考えてしまう。

もっと言うなら、目は、「こころの鏡」とか「こころの窓」であるばかりでなく、その人の命の姿があらわれ出ている気がしてならない。

命の姿 -- 生きる力、生きようとする意志、まっすぐに生きているか、生き方が一途であるか、無垢であるか、穢れていないか/ぎらぎらしているか/誠実で一生懸命なのか、そんなことがあらわれでて、目ヂカラとなっているのではないかしら。

小鳥はね、小鳥と対話するときはね、目で語り合うといいんだよ。
彼らに優しく目をやって、彼らが同じように見つめ返すとき、目という窓から、彼らのこころに入っていけそうな気がする。少なくとも、目という窓から、彼らがわたしの気持ちを理解してくれていると感ずる。

小鳥の意識の移り変わりは、人間よりもずっと素早いから(特にわたしはスローだから)一緒に遊んでいても、すっと目が別の場所に向かったとたん、彼らは飛び立っている。視線の移り変わりで、ここに一緒にいた彼らがもう別のところに行こうとしているのが判るよ。
 それに、こっちが「世話を焼いてあげている」「撫でてあげている」なんてエラソーに勘違いしていても、そんなわたしにチラッと向ける小露鈴の視線は、結構クールで、その<チラッ>で彼らを見くびったりはできないことは、一瞬のうちに思い知らされる。

視線で、一番判らなくて、謙虚な気持ちにさせられるのが、遠くに目をやっているとき、あるいは人間にとって“何も無い”空間に目をやっているとき。「何を考えているのだろう」などと安易に尋ねることすらできそうもない瞳の奥。その場所に、人間に見える世界とは違う、“小鳥の世界”があるのだ。その“小鳥の世界”の不思議さに、言葉が続かない。

わたしは、目ヂカラのある小鳥の瞳が大好きだ。生きようとする命の力が、ビーンと突き刺しそうなほど、まっすぐに向かってくる。

でも、野鳥の写真などで、劣悪な環境の中で生き抜いている鳥たちに目ヂカラを感じたり、瀕死の状況でそれでも尚目ヂカラのある瞳をしている鳥を目にすると、非常に辛い。というか、生きようとする命に向かって、何もかも振り捨てて、全身全霊で、応援に駆けつけたくなる。

わたしが小鳥を好きなのにも、サンクチュアリを創ろうと奮起しているのにも、鳥の目ヂカラは関係しているのかも。

危険が降りかかったり、待ち受けている可能性があっても、何も恐れず、こころもからだも一つとなって、飛んでくる鳥の瞳は、切ないほどうつくしい。


ん?小露鈴

「ん?」--どこへ行くの小露鈴
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笠間の天地

ご無沙汰しています。
ごめんなさい。

先週まで、仕事で『科学研究費』なるものの申請に気力を使い切ってしまっていました。今回は -- 未来に向けて、本当に、本当にやりたい研究、やるべき研究で応募しようと想って -- <一番大切なこと>の《そのまた核》となるべきものを見出し、それを言葉で表現するのは、わたしには至難の業でした。わたしにとっての<一番大切なこと>は、日本の学問では「研究領域」にさえなっておらず、まずそこで一旦溺れかけて、それからやっと、そこにある中で一番可能性のありそうな領域をつかむことができました。
 次に、これまでとは違う新しい領域で、<一番大切なこと>を言葉にしていくのも、とても大変でした。
 
真剣に考えるときは、とてもスローに動いています。
頭の中にあるアイデアがうまくつながらなくても、スローに動くと、新しいアイデアがひらめいてくるのです。
 アイデアが煮詰まって非常に非常に苦しくなると、散歩に出かけたり、本屋さんに出かけたりします。木漏れ日が綺麗!!とその美しさとか、小鳥の声や風の音が、いつもよりもからだに染みます。本屋さんでは、研究に必要な領域の本だけでなく、関係ない本や、”表紙に何となく惹かれる”本などを、何も考えず、何の脈絡もなく手にとります。
 人から見ると、「ものすごく忙しいはずなのに、ものすごく暇に見える」状態です。動きも、感じ方も、スローモーション。人には逢わないようにします。逢っても、頭の中のイメージに刻まれない=無視してしまう、ので、トラブルを避けるためです。

ひたすら、アイデアを、そのつながりとまとまりを、待ちます。

そして、やっと、からだの髄の髄まで、背骨の中の最後の一滴のエネルギーまで搾り取って、できる限りのことを書きました。終わった後、立てなかったくらい ・・・

週のその後は、ご褒美のように、横浜から氣功の大先輩Mさんが訪れてきてくださいました。サイトに書いた、I先生の直弟子さんで、「優しい」けれど「強い」氣ゆえに、わたしが氣功の世界にはまるきっかけとなった方です。キンチョーするほど尊敬しているのに、信じられないほど光栄なのですが、「お友達として」遊びに来てくださったのです。

最初の日は、おいしい自然食レストランで食事をしてから、氣功の練習会。
いつもよりたくさん、素晴らしい仲間が参加してくれて、盛りだくさんの練習になりました。

そして、翌日、行ったんです -- 笠間に。

笠間と言えば、I先生がバード・サンクチュアリについてご賛同してくださったときから、話が出ていた、サンクチュアリの候補地。そこを、直弟子で愛弟子の、尊敬するMさんにご案内するのは、格別に緊張します。

何故って、笠間の土地の氣は、「聖地」にふさわしいかしら? 笠間でこれまで試行錯誤してきたさまざまなことを、Mさんはどうご覧になるかしら? ここで、豊かな自然や綺麗な水や、素敵な人々にめぐり逢えた -- それをうまくお伝えできるかしら? そもそも、これまでしてきたこと -- ピュアな気持ちで一途に進んできたつもりだけれど、Mさんにはどう映ってみえるかしら? ちゃんと、わたしが<聖地の仕事>をしているかどうかを、Mさんは見通してしまわれるに違いない。

でも、今回もまた、笠間の自然や名所や人々が、温かく助けてくれました。

運転へたっぴいのわたしですが、何とかご案内も出来て、「自然の中に移り住むことによって、自然を壊さないか心配」という悩みも、「それでも(わたしが)購入することによって、大規模な開発が起こらないですむんだし、棲むことによって、その土地をよくしていくことはできる」というご助言(太鼓判?)も戴きました。 --良かった--

どこに決まるのであれ、<キラキラの光が降り注ぐように>サンクチュアリ探しやその創設ができそうな気がした一日でした。


まんまる小露鈴


すっきりGaea

小露鈴(上)もgaea(下)元気です。Mさんは、これまでのお客様で一等長いこと、本当にずっと長いこと、小露鈴を撫でてくださいました。(gaeaちゃんは、相変わらずの人見知りでしたが、お客様がいらっしゃるときにはめずらしく、怖がらずに好きなことをしていました。)

それで、研究の<一番大切なこと>ですが、中西悟堂氏を研究したいのです。
特に、彼の「小鳥との対話」や自然観、そして人間の自然や環境とのつながりを焦点として研究を織り込んでいきたいです。
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