hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

Pureness of the White Snow

朝、あまりにも静かなので寝過ごした。
窓をあけると、一面雪景色で、その上に、やわらかい白い雪が天から絶え間なく舞い降りていた。

White Snow!! この世界の騒音を閉じ込め、穢れや汚れを包み、静かで美しい、清らかな世界へと再生してくれる。何もかもをPureにしてくれる。

雪景色や、お正月の静かで凛として晴れやかな空、春や秋に時折訪れる虹色の朝焼けや夕焼けとその光が反射して地上が薔薇色に染まるひととき、そして、真夏の黄昏時の濃い蜜のような光が降り立つときも・・・ 「世界は美しい!」と感じられるその一瞬がある。

雪景色


やっぱり気になって、「今ごろ何だ」と自分の愚かさに恥じ入りつつ、昨日の道路をもう一度走った。今度は新聞紙と軍手を持って ・・・ 冷たくなっていたにしろ、やっぱり野ウサギのために、美しい森を探して埋葬した方がいいような気がした。だが、その道路も両脇の土地も雪が降り積もっており、何もかもが白い女神のマントに覆われていた。

今は、開発現場というその場所も、まっさらな白い世界となっている。工事用のトラックが数台停車していたが、ブルトーザーは見当たらず、この森を跡形もなく削り取ろうというまがまがしさや不穏な感じは消えていた。何となくであり、自分勝手なイメージだが、野ウサギのいたあたりも、白い雪が全てを包み込み、浄化して、癒してくれている、という気がした。自分勝手なイメージに苦笑しつつも、昨日の出来事を包み込み、浄化し、癒すために、天から雪が降りてきてくれたのだ、と。

*****

旧(ふる)い公務員宿舎の最上階にある、わたしの部屋のベランダは、かつて捨てられていたのをレスキューしてきた鉢植えやら、薬用植物・ハーブやら、”サンクチュアリが出来たら移し植えたい植物”やらが所狭しと並んでいる。
 今日はそのベランダを、雀やヒヨドリの小さな群れが行ったり来たりしている。きっと、雪のために食べ物が見つけられず、雪を被らないため緑が目立つベランダを見つけ、何か食べるものがないかを探してやって来たのだろう。互いを呼び合う声、若鳥の声も聴こえる。

庭があり庭木があるならともかく、野の鳥には安全な森で暮らして欲しいし、そこで自然のままに生きて欲しいし、近隣と大接近しているしで ・・・ 餌付けしてはいけない。

だが、今日一日だけ -- 玄米の米粒少しと、サツマイモを細かく刻んだものを鉢と鉢の陰に置いた。(近隣さん、ごめんなさい)

白い雪に食べものが覆い尽くされてしまった、この寒い一日を、一羽でも多くの誰かが、生き延びますように!
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トングレン

TX(つくばエクスプレス)開通を契機に、大規模開発がなされつつある研究学園都市駅(つくば駅の次の駅)の傍を車で通った。

急に交通量が増え、車のスピードもやたらと速くなったその舗装道路の脇に、野ウサギが転がっていた。

紅茶色というのか弦楽器の色に近いというのか、明るい茶色と真っ白な毛の、小さなウサギだ。若いウサギかもしれない。細長い、綺麗に揃った、まだ穢れもしていない、生えたてのような二つの耳があった。

この地に野ウサギが生息していたこと自体、知らなかった。ここは、やや荒れて鬱蒼とした人工林を中心に、林や草地が果てもなく広がっていた広大な土地だった。今は、右も左も大きなブルトーザーが何台も入って、林をなぎ倒し、地面を削っては均(なら)している。即効で建てたような簡易事務所のようなものも目に付く。

森が一日、一日と、みるみる奪われていき、棲みかを追われ、行き場を無くした野ウサギは、どこかに別天地を求めて飛び出して、車に轢かれたに違いない。ほとんど損傷が見られなかったので、苦しまず、一瞬の出来事だったことを祈りたい。

道脇に投げ出されている小さなウサギを目にした途端、何もかもを大きく揺るがすような叫びが聴こえた。
 ずっと遠くまで続く林や草原で生きてきた無数の動物、植物、昆虫、微生物の叫びだ。一日にして、彼らの棲みかを整地してしまうブルトーザーや工事の音でさえ、消すことができない、命の叫びだ。ホロコーストのときの叫びが、直接その場にいなかった人間たちにとってさえ、消したくても消せないほど深く響くように、人間以外の生きものたちが響かせているこの叫びも、わたしには消せない。
 いかにも愛くるしいが、すでに冷たくなっている野ウサギの姿が、その全てを運んできてくれたように感じられた。

ブルトーザーが均し終えた土は、もう土中のミミズさえ呼吸できそうに無いほど平らでつるつるになっている。その上に、冬鳥の鶫がぽつねんととまっている。

林と草地にバリケードのように覆いがなされている。そのバリケードの様子から見ると、この林と草地全てがブルトーザーの餌食となってしまうに違いない。駅周辺開発という名のもとに、まるでそんな林や草地や野ウサギなど、はじめから無かったかのように、コンクリートの建物が規律無く乱立し、ショッピングセンターや巨大駐車場やビルや飲食店や分譲地や何とか施設となってしまうだろう。

 叫び声が、からだの芯で響いている。
 床を転げまわって、大声を上げて床を叩いて、泣きたいと思った。
 ブルトーザーの走る道路の脇に転がる野ウサギが、どうしても心から離れず、引き返して何かできないかという気になった。交通量が多く、運転も荒い、その道に路注する勇気がなかった。いくら綺麗なウサギでも、怪我ならまだしも、死んでいるのでなすすべがないと思った。拾い上げて、自然に還してあげるにしても、ふるさとの森は、もうウサギにとってふるさとではないのだ。それどころか、拾い上げても、埋葬してあげられるような、静かな小さな森はないのだ。
 結局、ウサギのために何もしない自分 -- 人間 -- をのろった。

  そして、ヒト以外の生きものの、小さな命や、命のつながりや、緑や地面や川や池をこんな風に一瞬にして消し去る、人間の魔の手の勢いが、どうしても止まないなら、もうどうなってもいいと思った。そうして残る、人間たちや人工物の行く末なんて、共にしたくもない。
 もうどうでもいいや、という気がした。
 それから、そういう気持ちを懐く力さえないほど、脱力感を感じた。
 自らが慎ましく生きるために必要な暮らしは営みつつも、自然を敬い、森を育て、山や森や海とつながる人里も美しきものとしていこうとする日本人の良心を想った。それらはどこへ行ってしまったのだろうという気がした。

でも、それらはある。今も絶対あると信じる。

何もできないのではない。少なくとも、結論から言えば何もできなくても、何もやってみないのは嫌だ。

エネルギーをネガティブに使っちゃ駄目だ。
魔の手に恐れを懐いたり、圧倒されたり、憎んだりする、そんなことにエネルギーを消耗しては駄目だ。「やってみることができること」にエネルギーを使うのだ。

仏教の瞑想において、トングレンという修行がある。ヨガの練習でも、時々行う。
 落ち着いて座り、ゆったりと呼吸する。背筋だけはすっと伸ばして、天と地と自分とをつなぐ。こころが落ち着いてきたら、胸の中心のあたりをふわっと開く感じに・・・。そしてその少し先に、自分の最愛の誰かをイメージする。
 呼吸は無理なく、ゆっくり、やわらかく。胸の中心が、咲きたての蓮の花のようになって、かすかに開いたり閉じたりしているように。そして、その胸の中心から、イメージした相手と向き合い、呼吸する。イメージを使って、吸うときに、その相手の痛み・苦しみや悲しみを吸う。吐くときには逆に、自分の胸の奥にある最もよいもの、喜び・愛・優しさを送り届ける。
 この修行によって、悪いものをもらうということはない。最も重要なことは、自分自身が、吸った痛み・苦しみ・悲しみを、喜び・愛・優しさに<変換して>吐くということなのだ。自分のものが吸い取られるのでも、嫌なものが入ってくるのでもない。<変換する>だけでいい。
 最初は、最愛の誰かをイメージするが、それは、そうするとこの<変換>はいともたやすいからだ。しかし、修行は、それに留まらない。イメージする相手を、やや好きな誰か、見知らぬ誰か、・・・と順に<変換>しにくい相手に変えていき、誰をイメージしてもできるようにしていく。最終的には、最も憎い相手をイメージしても、この<変換>ができるようにする。(因みに、わたしには、まだ、この最後の段階は、する勇気がない)
 
エネルギーは、変換できる。

わたしは、もう何年も前に、決めたのだ。
「たとえブルトーザーが山の向こうで木々をなぎ倒していても、わたしはここで、苗木を植える」と。

野ウサギさん、ごめんなさい。
でも、あなたが早くこの世へ還って来られるような、森を創る。


聖地(梅林)

   my bird sanctuary 候補地の近所の里山です。
   1月の3連休、昼頃に撮影しました。
   山林の手入れはされていませんが、美しく静かな場所です。
   自然が、いつまでも息づいていますように・・・
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清らかな流れの源で ~新春版3~

大井神社さんでこころを決めた日の夜、ちょっと興奮さめやらずで、かなり気持ちが冴えて、何だか通常の意識状態ではないような状態のまま、いつもの氣功の練習会に出ました。昨年最後の練習会です。

その日の練習は、先生の提案で、少し早めに締めて、全員が一年の反省や感想を一言ずつ述べながらの茶話会をすることになりました。先生は何と、クリスマスケーキを買って珈琲を沸かす準備までして下さっていました。

みんなの話す時間を奪ってしまって悪いな~と気兼ねしつつ、その日の出来事を夢中で話しました。その練習会の仲間は、少人数ですが、氣功でも少数精鋭の方ばかりで、しかもわたしなどの20倍くらい人徳のある方たちです。サンクチュアリの夢については、ごく初期の頃から“内輪として”話を聴いて下さり、様々な助言や支援を戴いてきました。これまでの挫折や、馬鹿なしくじり、落ち込んだ低レベルのわたしについても、非常によくご存知で、それでも温かく見守り続けて下さっています。
 その方々が良かったね~と暖かい眼差しで受けとめ、頷いてくれるたびに、とても温かな気持ちになり、深い感謝の気持ちに包まれました。大井の神さまのところで「受け入れられ、見守られ、支えられてきた」と感じたことを、その方々一人一人にも同じように感じたのです。

土地の地主の方との交渉は、まだこれからです。すべてが思い通りにいかないで、「この土地と、あっちの土地」という具合に、いろんなやり繰りをする必要が出てくるかもしれません。欲しい土地と手に入る土地がちぐはぐになって、パッチワーク状態のサンクチュアリになってしまうかもしれません。それどころか、そのやり繰りさえ、うまく行くかどうかは未知数です。

何とかなったとして -- 本当に大変なのは、それからです。土地、道、水や土や空気、周辺の環境をどう守るか、森林の管理や再生、そして管理のための小屋作り(それに伴う自然をできるだけ破損したり汚さないための工夫の数々)、さらに、野鳥や木々を見守りつつ彼らを観察し、彼らと対話して、彼らの声を聴いてゆきたい -- 自然と共生し、愛しい生きものたちと調和のある暮らしをするために、ひとつひとつ、いろんなことに対処しなければならないでしょう。
 嫌なことや辛いこともあって、でももしかするとそれどころではなく、決定的な手痛い失敗をするかもしれない。

「失敗すれば-- またやり直せばいいでしょう」

静かに、にこにこ微笑みながら、仲間の一人が言います。

さて、この茶話会で話したことを、次の日曜日に神奈川の平塚で催されるI先生の練習会にも報告に行け、と先生やみんなは言います。I先生は、一昨年までつくばの練習会に年一度いらして下さっており、その最後の練習会の後でサンクチュアリの夢をお話したとき、即座に支援を申し出てくださいました(サイト my bird sanctuary参照)。今は、平塚を中心に、I先生のお弟子さんたちが沢山、応援して下さっているのです。(かたじけない・・・)
 さらに、それまで氣功の先生と水戸の氣功同好会(生徒さんたち)がI先生をお呼び下さっており、この水戸の氣功同好会の皆さまからも、サンクチュアリの夢について温かい支援や助力や、お言葉をいただいてきました(大先輩のAさんもそのメンバーです)。たまたま、その翌日の休日は、同好会の練習日だそうで、そちらにも行って報告したらどうだ?と言われてしまいました。

ともかく、その日から立て続けに、水戸と平塚、これまで言葉に尽くせぬほど沢山のご支援や助力、お智慧やことばを戴いてきた数々の皆様にお目にかかりに行って、ご挨拶とこれまでのことのご報告をしました。

人前で、自分の希求することや行いを述べるのは大の苦手です。多分、「自分のことを話す」のだという意識でいたら、お目にかかりに行くのも、ましてや大勢の前でお話するのも、決して出来はしなかったでしょう。見守り支援し続けてくれている温かい力を、人々の中に感じ、「わたしの sanctuary」ではなく「みんなの sanctuary」だと感じられたから、どうしても報告しなければという気がしたのです。みんなが見守り、待っていてくれたことの報告です。

小鳥や木々の命も、清らかな水も、空気も土も、わたし独りの力ではとうてい守りきれません。でも、小鳥や木々や様々な命、水や空気や土とつながっているのは、わたし独りではなく、みんなもなのです。みんながそのつながりを感じてくれたとき、多分、命や自然は生き生きと息づいていくでしょう。

お目にかかりに行った先生、先輩方や仲間たちは、そんなこと言うまでもなく、もっと先を行っているような方々です。平塚での帰りがけに、素敵な仲間に頭を下げると、こう言われました。

「だってみんなが望むことだから」


大井神社脇

 大井神社の側
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清らかな流れの源で ~新春版2~

「土地の神さまとどのように対話すればよいのか?」

その問いを思い切って声に出し、いろんな方に支援され、最終的にお答えをいただいたのは、古神道では指折りのI先生でした(12月11日ブログおよびサイト my bird sanctuary 参照)。

まず氏神さまに、そして自分の信仰するところに行きます。
難しい式や祝詞を知らなくても構わない、と伺い、それでは「一生懸命にやれば良いのですか?」とさらに問うと、「そうです、そうです」とのことでした。

でも、一生懸命って、どういう風に一生懸命であればいいの?

何となく、”無垢で”“純粋で””まっすぐな気持ち”が大切という気がいたしました。頭の中に思念がごちゃごちゃ詰まっていては、駄目という気がしました。たとえいかなるものであれ、何かの思いや念が強いのも、駄目という気がしました。

でも何も無いすっからかんの<空>の状態が良いか、というと、それも良しだけれども、<何かに純粋無垢になっている>状態が望まれているような気がしました。何だろう・・・? 何となく感じていることはあります。敢えて口に出すとすると、小鳥や樹木や命や自然への愛のみ、そんな状態かもしれません。(ただし、頭で強く念じるのでなく、からだでふんわり放っている、そんな状態です)

そのときは比較的綺麗な気持ちだったので、何の不安も無く、そうして神社に向かいました。笠間に向かう路に入った途端、そんな気持ちになったのです。

氏神さまにお参りしてから、Aさんと待ち合わせて、今度は「信仰するところ」と想っている神社さんに向かいました。1ヶ月くらい前から、ずっと気になっていた神社です。
 I先生は、<これまでずっと信仰してきた><自分の家が代々奉っている>ところを仰ったのかもしれないし、これまでこの神社には一度ふらりと偶然立ち寄ったきりだから、ここを選ぶのは不自然に映るかもしれませんね。しかし、絶対にこの神社にお参りしなければならない、というものすごく強い確信がありました。(わたしは、これまで特に信心深かったわけではないので、この確信はすごいですよね。それとも天邪鬼なだけなんでしょうか・・・?) ここのところずっと気になってきたし、今は引っ張られるように感ずるほど、「行かなければ」と想うのです。

笠間市の北を横断する国道50号に出てしばらく東へ進み、左に入ってほんの少し北上すると、山や森に挟まれた田園地帯が開けています。この田園地帯では、毎年初夏に、『田んぼ偕楽園』といって、芸術家さんたちが田畑や山の麓・中腹などに作品を展示したりイヴェントを催したりします。若緑や草緑、木々の間で作品が映えるような、そんな穏やかな場所です。
 田園地帯を突っ切って山の麓まで進むと、その山の中に隠れるように神社があります。大井神社さんです。背の高い杉並木が両脇に並ぶ、長い参道を登っていきます。途中には、雑木があったり、麓の田畑や家々が見渡せる開けたところがあったりします。鳥居はありません。杉の中には、本当に立派な古木もあります。
 (言い伝えによると、かつて大井の神さまが、ちょうど対峙するところに位置されている鹿島の神さま<=鹿島神宮>に見事な鳥居を誉められ、お貸しすることにしたそうです。しばらくして返していただくようにお使いをよこすと、その鳥居があまりにも人々に愛されているので、返して欲しいと言いそびれ、それ以後、そのようなトラブルを避けるために、杉並木を鳥居、山の清水をお手水となさることにしたそうです)

大井神社入り口


さて、ようやくお社まで着きました。同行してくださった氣功の大先輩のAさんは、この夏に大病の手術をなさり、ようやく回復されたところです。それなのに、しんしんと冷える冬の日に、ここまでの道のりを御供してくださいました。サンクチュアリの夢が生まれて少しの頃から、夢に耳を傾けてくださり、笠間の地で夢を求めていく橋渡しもして下さった方です。

境内には、他に誰もいません。冬の空気が張り詰めていますが、杉、そして葉を落とした欅や楠に取り囲まれたその空間に、白い日差しが流れ込んできています。しばらく静かにお参りをしました。

Aさんが立ち上がり、歩き出しました。わたしは、まだずっと静かにこうしていたいような気がしました。Aさんはそれを察して、枯れ葉や枯れ枝で遊びながら、静かに待っていて下さいます。

車の音がして、軽トラが登ってきました。軽トラは境内の脇まで来て、帽子を被ったおじさんが降りて薪の束を降ろし始めました。物怖じしないAさんは、つかつかと歩み寄って、

「ねえ、お参りに来たのだけれど、社務所は冬の間は、閉まっているの?」

と尋ねます。そうです、そう言えば『田んぼ偕楽園』の後で立ち寄ったときは、社務所が開いていて、神主さんがいらっしゃいました。お札がいただける窓口もあります。今日はとても一生懸命な理由で来たのですから、神主さんともお会いして、お札(ふだ)もいただきたい(気持ちも捧げたい)ような気がします。

「うんにゃ・・午前中さ開いってっぺ」

この時期でも、神主さんは朝いらっしゃり、午前中は開けてお仕事をなさっていて、午後は閉めてお帰りになるとのことでした。「神社にお参りするのは午前中がいい」と聞いて、その日もまだ11時半少し前だったのですが、お昼でお帰りになったのだろう、ということでした。
 おじさんは、車さえあれば、神主さんは近くにお住まいなので、訪ねてみればよい、と言ってくれましたが、Aさんは「また来るわ」と答え、御礼を言って、「また来なきゃね」とわたしを見ました。

”もう一度来なくちゃいけない”という強い気持ちがして、頷きました。

そう、もう一度来なければなりません。再び強い確信です。

一連の「土地の神さまと対話するために・・・」は、そんなに簡単なわけありません。サンクチュアリに向かっての次のステップは、「もう一度来る」こと以外ありえなく、そうでなければ何処へもいけないのだ、という気がしました。

*********

こうして、笠間から戻って毎朝、毎朝、「今日(が行く日)かな?」と思っては決断がつかず、数日が過ぎました。年の瀬となっていきます。できれば今年中に、もう少し何かしたいな~

でも、それほど待たずに済みました。ある夜、「明日行かなきゃ・・・?」と思い始め、翌朝早く、「行く!」と思ってスキッと起きることになっていました。今度は一人です。

笠間へは9時50分頃に到着。前回と違って、道路沿いに車を止めて、そこから田んぼをえんえんと突っ切って歩いていくことにしました。

里山はすっかり冬景色。はっきりした道が分からず、田んぼの畦道を突っ切って進みます。冬の真っ白な太陽は出ていますが、寒風が横殴りに吹き付けます。田んぼから見渡せる、雑木や植林した杉・檜の山々は、凍てついた色をしています。凍えてしまうと困るので、早足で歩きました。

神社がある辺りの山の麓まで来ましたが -- あれ、どの辺りだろう -- 小高い山が続くので、どの山で、入り口がどこであるのか、はっきりした場所が見当たらなくなってしまいました。(ま、この方向音痴を知り尽くしている<?>Aさんが、体調を押して同行すると言い張ってくれたのも、無理からぬことか)

いやいや、すっかり分からなくなってしまいました。と言うか、この辺りのはずなんだけどな~ (←段々、薄くなる自信) まずいです、今度は神主さんがいらっしゃる午前中、もっと早くに、伺おうって決めて、来たんだから。

そのとき、「大井神社入り口 ←」と矢印のある小さな立て札が目に入りました。見覚えは無いけど、ま、行ってみよう。と民家の間を縫っているそこからの道を入ります。山のほうに向かっての上り坂になっているので -- ま、大丈夫だろう。
 冷たい風が吹いてしんしんと冷えているせいか、6,7棟はある民家のどこもしんとして、住んでいる気配はすれど、人影はありません。唯一、一匹の白い痩せた番犬だけが、歩いているわたしに向かって長いこと吠え立てました。
 民家が途切れた頃、道は山を登る石段となります。その急な石段を登っていくと--。

あ、見覚えがある! 

そうだ、その昔、氣功の先生の導きで、みんなで座って瞑想したことのある石段です(12月12日ブログ参照)。あのとき、やさしく包むように両脇に立っていた二本の木も、ちゃんとあります。

わ、この素敵なスポットに出るなんて、ラッキー! というか、この素晴らしい場所から、神社さんに上がっていくのが、いいかも。(前回は、まじめなお参りだから、きちんとした道を取ろう、と思って、正面の参道から入ったのですが)。

その石段の二本の木を越えてすぐに、境内がありました。

まずお社でお参りして、それから社務所の方を見ると--

あれ、”今日も”閉まっている~

近付いていって、遠慮がちに戸を叩き、次いで裏手も覗いてみます。すぐ近くにいたらしい、シロハラが一直線に飛び去り、アオジたちの群れも騒いで声を上げます。野鳥たちの鳴き声ばかり。

何だ、また閉まっているのか~。大切な理由で来たのだから、もう一度伺って、神主さんにもご挨拶して、お札(ふだ)もらわなきゃ、ってはずだったのに。

そんな思いが一瞬過(よ)ぎりましたが、「いや、ちょっと待て」。お札は紙切れに過ぎない(←不謹慎)。それが来たことの核心じゃないだろ。来たことの核心は、最も大切なことは--。

もう一度向き直って、お社に向かって、手を合わせました。

しばらくそうしていましたが、寒風が吹きすさぶ音、枯れ葉や小枝が落ちる音しか聞こえません。激しい風が吹き荒れているらしいのですが、ここでは周辺の杉や楠たちがガードしてくれているのか、吹き飛ばされそうな心配はありません。先ほど聞こえた鳥たちの声も、聞こえなくなってしまいました。沈黙と静寂しかありません。

天のエネルギーと地のエネルギーを感じます。

この場所では、その二つが綺麗に合わさっている感じがしました。天のエネルギーは白く貫くように、地のエネルギーは温かで安定しているように感じます。

「土地の神様と対話しなきゃ」と思い始めてから、色んな方々を巻き込んで、それなりに大騒ぎをしてしまいました。神さまだ、神社だと人前で騒ぐのは、職業柄、何となく気恥ずかしいというか、対処できないような気がして当惑の思いもありました。しかし一方、夢の地を「サンクチュアリ=聖地」と思ってしまっている以上、土地の神さま、自然の神さまから、許しをいただけるのか撥ね付けられるのか、という考えは、幾度も頭の中を過(よ)ぎっていたのです。

けれども今ここで、「許可される」「はばまれる」などという考えを抱くこと自体、愚かで恥ずかしいということがよく分かりました。

とても綺麗な静寂があります。安らかで穏やかで温かい気持ちです。

サンクチュアリのことで、やってきたことについて、すべては元(はじめ)からずっと、許され、見守られ、支えられてきたのです。そこには、「愛しかない」。
わたしは、そのように感じました。

そのように感じると、今度は力強さが生まれて、
「わかりました。進みます。ありがとうございます」と声に出して告げました。

そして、静寂と光に包まれた気持ちで、参道を降りました。

大井神社正面


ありがとう!!

こころが決まりました。

まっすぐ帰るつもりでしたが、笠間にて候補地を探すに当たり、こころある不動産屋のKさんをご紹介くださり、信じられないくらい温かくご支援下さっている『陶歌』さんに、(お忙しいので口でなくこころで)御礼を言うつもりで、ふと立ち寄りました。

いつもの温かい笑顔で迎えてくださいます。「長居しないから」と言うと、「ちょうど珈琲を淹れたところだから」「ほら、あのT.A.さんがいらしているの」と言います。T.A.さんとは面識がありませんが、『陶歌』さんが、夢のような話に協力してくださる不動産屋さんを探してKさんをご紹介くださる際に、間に入ってくださって、それ以降もずっと土地探しに心血を注ぐKさんを支えていらした方です。
 『陶歌』さん、Kさんからしばしばお噂は聞きながら、ずっとお目にかかれなかったT.A.さん -- 今朝という特別なときに、お目見えできるなんて、偶然です。
 T.A.さんは、思った通り、優しくて包容力があってたおやかな、大きな海のような方でした。サンクチュアリ創立というわたしの夢を叶えるために、Kさんがどれ程一生懸命に土地を探し心を砕いていらっしゃったかについて、話してくださいました。また、一旦は諦めた候補地を、どうしても気になって見直したことから、今があるのですが、その際大変お世話になった土地の大工さんとも同級生で、大工さんの人柄や人望についても思ったとおりの嬉しい話を聞かせてくださいました。
 今朝、神社さんで「こころが決まった」ばかりのところで、こんなにも多くの方々に支えられてきたのだ、ということを改めて感じました。様々な方が注いでくださった気持ちや、智慧や、手や、こころや思いは、信じられないくらい沢山で、どれほど感謝してもし尽くせないと感じます。

『陶歌』さん、T.A.さんにその通りのことをお話して、「今日は特別な日で、この日にこうしたお話ができるのが本当に嬉しいです」という段階で、段々涙ぐんできてしまいました。
 それで、突然のことだったのですが、T.A.さんが「Kさん、呼ぼうか? 今きっとそこ(=『陶歌』さんのお店の裏手の図書館)にいるから」と携帯を取り出したかと思うと、不動産屋さんを呼び出してしまいました。

あら、と思う間もなく、不動産屋のKさんが現れ、あら、と思う間もなく、わたしは、見つけてくださった候補地にこころが決まったので、よろしくお願いします、と深く感謝しつつ頭を下げていました。

候補地には地主さんの違う幾つかの土地があり、それらは売りに出ているわけではありません。Kさんの方で「ここなら(売ってくれるかという)交渉ができそうと思った土地を紹介して戴いています。それらの土地のうち、先日花園の友人ご夫妻(AさんとM氏。12月8日ブログ参照)に見立てていただいた通りの優先順序で、売っていただけるかどうかの交渉をお願いすることにしました。Kさんは、年明けから交渉を開始して下さるといいます。皆で感激して、ちょっと「うるうる」しました。本当に感謝です。これまで長い間、ずっと決められないでいた間も、皆見守り続けていて下さったのです。

あらら、何ということでしょう!
 今日はこれと感ずる神社さんにお参りするだけの予定だったのに、「すべては元(はじめ)からずっと、許され、見守られ、支えられてきた」と感じ、「こころを決めた」途端、神さまに後押しされているように、急スピードで進んでしまった! 

新年のスタートです。

********

追記 ちょっと不思議なこと

1.忘れられない、その特別な日は ・・・ あとから気付いたのですが、「冬至」だったのです。(そう言えば、親切なT.A.さんに「今日はこれ、お風呂に入れる日だから」と沢山の柚子を戴いたなあ。あと、笠間産のぱりぱりした林檎や、キウィや、白菜、南瓜も ←南瓜も冬至グッズですね)

2.大井神社のお社で、静寂と沈黙の中、長いこと手を合わせていたとき、風の音だけで、野鳥たちの声は全くしなかったと書きました。でも本当は途中で、ただ一羽だけ、例外がありました。
 そのときも、(氏神さまにお参りしたときと同じように)黄鶺鴒が現れたのです。
 これ、ものすごく神秘的でしょう?!


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清らかな流れの源で ~新春版1~

新春 おめでとうございます。
2006年もよろしくお願いします。

小露鈴も少しずつ回復に向かい、寒いですが新春の慶びに溢れ、一年のスタートを切ることが出来ました。

今年は、野鳥や樹木、水や土や空気を守り、地球の緑を少しでも豊かなものとし、自然と人間とが調和して生きていける、バードサンクチュアリの実現に向かって、一歩ずつ確実に歩んでいきたいと想います。

ご報告が遅くなりましたが、12月に入ってから、サンクチュアリ創立の夢に関わるいろんなことが、急速に展開しました。ちょっと不思議な気持ち -- ある方の言葉を借りると、まるで”神さまに後押し”されているような勢いで-- 何かの流れが生まれたようです。

12月も中旬を過ぎてから、候補地の氏神さまに当たる神社さんと、笠間の地と縁あって以来、ずっと「気になって」いた神社さんとに、お参りに行って参りました。

インターを降りて、笠間へと向かう道路を車で入ったとき、それまでの自分の気持ちがみるみる変化していきました。それまでは「神社さんに行ったら、ちゃんと対話できるかな? サンクチュアリ創立の許しをいただけるだろうか? もしかすると、撥ね付けられるかな?」などと、あれやこれやの考えが頭に浮かんでいたのですが、笠間を前方にして、もう「ありがとう・・・!」の気持ちしかないのです。そう、とにかくここまで来させてくれて、ありがとう。後はもう、まっすぐな気持ちで、行ってみるしかないや。

まず、氏神さまにあたる神社さん -- ここは、本当に”地元”と言えるような方々のための神社さんのようで、自家用車で行ったのですが、駐車場もなく、人通りの少ない脇道に止めさせていただいて、小さな細い参道を登っていくことになりました。

四所神社


両脇は雑木林で、人気(ひとけ)は一切無く、野鳥たちの楽園となっています。この辺りでは余り見かけぬ熊笹が茂っていて、印象的でした。

四所神社大きな木


蒼空に突き抜けるような背の高い木もあります。

上まで登ると、小さな社が見えました。その奥は森、右手は地元の方々の先祖さまが休まれているのでしょう。墓地があります。

四所神社 社


氏神さまに挨拶です。キーンと張り詰めた山奥の冬の朝の空気、風が木々や熊笹を揺らす音、様々な野鳥たちのざわめき -- それ以外は静けさと穏やかさしかありません。静かに頭を下げて「清め賜え 払い賜え 守り賜え 幸わえ賜え」と声に出して柏手(かしわで)を打った後は、からだもこころも<空>の状態です。

あ、ジョウビタキのメス!(オスよりも色が地味ですが、それがまた渋くていい感じ。顔は・・・ものすごく可愛いつぶらな瞳です)。そして、奥の林では、モズ、エナガ、四十雀、ヒヨドリ ・・・ 声いっぱい野鳥が鳴いています。ここはすでに、野鳥の楽園みたい。

そのときです。本当にすぐ近く、右肩から50センチくらいのところに、一瞬だけ、黄鶺鴒が飛んできて、すぐに取って返しました。瞬間の大接近です。思わず、頭を上げました。

一点の穢れも無い、澄んだ黄色の胸をしています。

社の、わたしの立っている当たりは、彼(彼女?)の領分なのかな? わたしに気付かずに飛んできて、人間の姿を認めて慌てて引き返したのかな? よく判らないのですが、それにしても、小鳥たちのサンクチュアリの候補地として考えてる土地の氏神さまのところにいて、こんな綺麗な黄鶺鴒がこんな形で近付いてくれるなんて、人間としては深い想いに誘われないわけにはいきません。

何となく、この黄鶺鴒が<お使い>みたいな気持ちになります。

野鳥がいっぱい、黄鶺鴒のお使い、幸先いいぞ・・・! 

自然がひっそりと、静かに息づいている場所。山の奥の清冽な空気をそのまま留めている場所。朝の気配から、夜もまた怯えや危険を感じるようなものではなく、生きものたちが安らかに休息している時を感じるような、温かさのある場所。人間もまた、その生きものの一員である場所。

この近くの候補地の自然を「守りたい!」って固く思っているけれど、その自然の広がり・繋がりの中で、守られているのはわたしの方。

氏神さまの納める土地について、そんな感じを抱いて、静かに参道を下りてきました。

神さまありがとう。

この日はこのあと、創立の最初から大変お世話になっているギャラリー『陶歌』さんで、先輩であり親友であるAさんと待ち合わせ、続いて”気になる神社”さんにお参りする予定です。沈黙と静けさがよくてずっと祈っているうち、時間となってしまいました。

このあとのことは -- そんなに簡単ではなかったんです。続きはまた明日。

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