hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

草刈り修行 ~3~

雑木林での草刈りをして一日、まだまだ残してしまった部分がありました。とにかく自然とだけ向き合いたくて、仕事をきちんとこなせるようになりたくて、もう一日、是非とものお願いして八郷に伺いました。

今度も9時に到着するよう、朝陽の中を朝日峠越えです。到着して、迎えてくださったS夫人 -- あれれ、そうっと近付いていらして、小声で何か・・・ いつもと様子が違います。

「ちょっと、ちょっと」と手招きして、「朝から、間に合うかな・・・って言ってたのよ」

車から荷物も取り出さず、キーもそのままに、わたしも合わせてしのび足。そっと木戸を抜けて付いていくと--。

「ああ、あんまり振動を与えないで来て下さい」とS先生。テラスの横に、寄せて植えてある樹々のところでからだをかがめていらっしゃいます。

よくわからないまま、麦わら帽子までとって、抜き足差し足で近付くわたし。

羽化したばかりのアゲハチョウ


前回ご訪問したとき、マスカット・グリーンの大きな蛹となっていたアゲハチョウが、羽化していたのでした。

昨夕遅く、羽化が始まり、梅雨の雨のせいもあって、その日はぐったり眠ってしまった蝶は、今朝早く羽を広げ、乾かして、からだが温まるのを待っていたのです。(蝶は、朝に羽化して、羽が乾くと飛んでいくことが多いようですが、一晩越しで飛んでいく、こうしたケースもあるそうです)。羽化して、蛹だったときの太い胴から体液を出して、しばらくするとほっそりしたからだつきになっていきます。そして、羽を広げて、十分元気になると、飛び立っていきます。この蝶は、まだからだから液が出ており、見ているうちにどんどんスマートになっていきました。

そう言えば、八郷へ来る途中、今朝は随分と蝶を見かけました。ほとんど誰も通らないまっすぐな道路を、すべるように車で進んでいると、ひらひらと頼りなげに、道脇から舞って横切ってくるのです。「あぶない!」とスピードを緩めながら、「まだ生まれたてかしら」と思ったのが、その朝だけで三度以上ありました。S先生に伺うと、梅雨の中日、天気予報に反してようやく晴れたこの日、蝶たちは、待っていたように羽を乾かして、採蜜しているようです。そうだね、雨降りじゃあ、羽が濡れちゃうから、飛べないものね。花を探して、飛んでいけなかったんだね。おなかすいてたんだね。

池に来た蝶


池のところへも、色々な蝶が、入れ替わり訪れます。羽を閉じたり開いたり・・・ ゆっくりと動いていて、何だか人間の時間とは異なる時間に生きているみたい。

さあ、しっかり草刈りを始めましょう! 今日は、雑木林の先端まで刈り進んで行きたいです。優しいS夫人がせっかくお茶を薦めてくださっているのに、気持ちはもう草刈りまっしぐら!で前回刈ったところまで、マーチで進みます。

ウィーンという音と共に、草刈りも二日目ともなると、からだがすぐ”草刈りモード”で動き始めます。初日にきちんと刈ったつもりでも、また頭をもたげているチヂミザサ、やっぱり根っこの張っているものは、強いです。黙々と進めていきます。

雑木林も、S先生のお家から一番遠い、先端のところまで行くと、かなり植生が違います。木に関しては、先生が移植されて、常に良い具合に見守られています。雑木林は、背の高いシノダケが密集して生えている荒れた林を開墾して作られており、先端や周辺はシノダケが鬱蒼と生えています。少しずつ切り開いていったので、先端の地は切り開いて日も浅く、地面には日が良く当たりますが乾いていて、やや荒れています。生えてくる下草も、恐らく地下茎をめぐらせているであろうシノダケの太いのや、(花は高貴で美しいけれども)樹木に巻きついて手に負えなくなるフジや、イノコヅチの(草が)巨大化したのや、手強い草たちばかり。最近切り開いた土地は、すでに力強いシノダケの藪になっています。

すでに膝丈以上の高さになっている手強い草たちは、刈るというより草刈り機でバッサバッサとなぎ倒す感じです。こちらもいつの間にか、やや”戦闘モード”となってしまっています。藪や繁みで草を刈るときには、蛇がいるかもしれないので注意、とS先生にご教授を受けました。毒のある蛇の中でも、ヤマカガシは逃げますが、マムシは逃げません。それゆえ、藪や繁みでは、後ずさりしながら草を刈ってはいけません -- 前方の草むらに意識集中。(もちろんゴム長靴です)

手強い相手を、早く何とか綺麗にしようと夢中になっているうち、あっと手元が滑って、S先生が移植されたという(刈ってはいけない)ヨモギの草むらの頭をさっとなぞって刈ってしまいました。うわ~ 疲れも知らずがむしゃらにやりすぎてしまっていたかな -- 反省、反省。ものすごくためらって、失敗をお詫びしました。うちの近くにあるヨモギを持ってきます、と思ったのですが、ヨモギの移植は難しいそうです。でも、ヨモギの一部と、根元が残っていたので、「これなら、大丈夫、また生えてきますよ」とのことで、ほっとしましたが -- 時々、落ち着いて、全体を見通して、いろいろ点検しながら進めなきゃ。すみません。

先端のところがほぼ綺麗になって、シャワーをお借りしてから美味しいお昼をいただき、小休止。この反省もあったので、遅めの午後は、先端を綺麗にして、散策路を綺麗にして、ほぼ全体の草を刈ったところで(ガソリン一回分)前回より早めに終えました。疲れてまた変な失敗しない前に。

作業している間に、S夫人がこんなに美味しそうなシュークリームを作ってくださっていました。手作りです、大感激!
シュークリーム


やや日の翳ってきた雑木林を眺めながら、ゆったりとしたティータイムです。一日暑かったですが、吹き渡る風がとても爽やかでした。う~ん、緑の中で汗を流して、その汗を落として、ゆったりと美味しいものを戴くなんて、極上の贅沢ですね。

緑の中のティータイム


今日は本当は、雨の予報だったのに、またまた終日草刈りができるように雨を止めてくれた天に感謝です。

白い紫陽花


去年の草刈りの時に、カナヘビが休んでいた白い紫陽花は、今年もひっそり静かに咲いています。

薄曇りの筑波山


梅雨時の夕暮れの筑波山は、薄く曇ったトーンです。
今日も、豊かな一日でした。
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草刈り修行 ~2~

草を刈った雑木林

昼からも黙々作業をします。S先生は枯れてしまったウワミズザクラに梯子をかけて、高いところで剪定等の作業をなさっています。シジュウカラからの子どもたちがよく止まるので、写真撮影用に枝を整えるそうです。S夫人は家の片付けをされたり、うちの小鳥たちのためにハコベを摘みに行ってくださったり。草刈り仕事は一任して、好きなように進めさせてくださいます(感謝!)。そして、夕方まで進めて、写真のようになりました。

辺りいちめん、青草の香りが立ち込めて、林の中には夕方のやわらかな光が射しています。梅雨の合い間の、恵まれたような夏日 -- 蒸し暑く、作業をしていると、汗が出ますが(着替え二回分必要!)、樹々の間を吹き抜ける風は爽やかです。晴れたといっても、空には雲が立ち込めていますが、時々雲間から射す太陽の光が木漏れ陽となってくぐり降りてくると、樹々の枝の緑が鮮やかに映えます。

草刈り機を止めると、ウグイスが潤い豊かな声を林内に響かせます。

夕闇が迫ってきたので、今日の作業を終えました。家・庭に近い林内のスペースと、雑木林を巡る道をかなり刈ることができました。

シャワーを浴びて、美味しいお紅茶と、S夫人お手製の(焼きたての)フルーツケーキと、冷たいフルーツの盛り合わせをテラスでいただきました。

太陽が沈んで、一日を終えようとしている雑木林を眺めます。
草刈り機を回していたので、鳥たちにあまり遭えなかったのだけは、残念だな(うるさくて、遠ざけてしまったかな。ごめんね)

ジャムや果実種にするととても美味しく、色美しい、ブルーベリーやナツハゼも、たわわに実っています。実自体は、まだ綺麗なマスカットグリーンの色合いですが、これから濃い紫色に変わっていきます。でも、この色も、ピュアな感じでとても好き!
ブルーベリーの実り

     (ブルーベリーの実り)
ナツハゼの実

     (つやつやのナツハゼの実)

以前うかがったときに、テラスから見える木にかけた巣箱で、”子育て開始?”の素振りがみえたシジュウカラのペアがいたのですが、無事に子育てを終えて、9羽もの雛が巣立っていったそうです。巣立った後の巣箱も見せていただきました。以前にオスのシジュウカラが緑の苔をくわえていたのを見たのですが、箱の中には、青苔や動物の毛をしきつめて、まんなかを窪ませた、すてきなベットが出来上がっていました。卵が孵ったときの殻や、雛の糞などは、綺麗に持ち去ってあります。「立つ鳥あとを濁さず!」 -- なかなかかっこよく、素敵な鳥です。

お家に入って、パソコンに取り込んだ抱卵中や巣立ってからの一連の写真を見せていただきました。(抱卵中の、シジュウカラ・ペアーの仲睦ましいやりとりや、巣箱を護り、警戒する様子、雛たちの巣立ちの様を録音した声の記録もあるそうです。編集して、聴かせていただくのが楽しみ・・・!) ペアーのオス・メス共、とてもがんばって巣を護り、卵が孵ってからは、片時も休まず餌の昆虫を雛に与えては、雛たちの糞を運び出す、大変な働きだったそうです。

巣立ちの日の写真には、とっても可愛い、雛たちの姿が写っていました。一番元気のいい子から飛び出して、一度に2羽くらいが親に誘導されては、安全な森の奥へと飛んでいったそうです。最後に残ったのは、やっぱり臆病なおちびさん(お兄ちゃんに比べれば、発育も遅いかもしれませんね)。巣箱の穴に隠れてはちらりと覗き、なかなか出てこないで、ようやく出てきても、細い枝にしがみついて座り込んでいるのが写真に写っていました。

この雛たちが、グループとなって、水浴び場に来るので、いつもは夏になるとボウフラがわく前に片付けてしまう池も、今年は片付けられないそうです。しかもその間に、庭のカエルたちが卵を産んでしまって、オタマジャクシが泳ぐようになってしまいました。どこからか飛んで来て住みついたミズスマシやゲンゴロウは、池の水を抜いても、また水場を探して飛んでいくことができます。しかし、オタマジャクシは干上がってしまいます。「蚊がぶんぶんするのはたまらない」「ビオトープになってしまった」と仰りながらも、Sご夫妻は池を見守っていらっしゃいます。

シジュウカラの雛たちは、二羽三羽と集まってきては、水場に興味津々。数羽出で水場に組んだ大きな石に下りては、他の鳥(親や、メジロ、キジバトなど)が水浴びするのを眺めます。そのうち、勇気ある子が水に足をつけたりしますが、全然だめな、怖がりの子もいます。そして最後には(巣立ってから数日後)先陣を切ってばしゃばしゃやる、元気な子が出ます。S先生は、雛たちが水浴びをしやすいように、雨の多いこの時期の池を少し水抜きして、水量を調節して浅瀬を作ってあげています。
ビオトープ化した池

 (雛たちが水浴びする池。この日は、オタマジャクシに後ろ足が生えました)
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草刈り修行 ~1~

今年もまた、行ってきました。
八郷にお住まいの野鳥観察・雑木林管理の大先輩、S先生ご夫妻のところへ、梅雨明け待たず、草刈りの見習い実習です。

今回は作業開始時間(9:00a.m.)に到着するように出たため、もうすっかり明るくなった筑波山朝日峠を越えました。樹々が生い茂って、前日の雨のおかげでつやつやに潤い、輝いていました。八郷に入ると、緑の色が一段と深く冴え、S先生の御宅のある辺りでは空気まで青く染まりそうなほど植物が息づいていました。御宅について愛車のドアを開けると、青っぽい強い香りがしました。

S先生もS夫人もにこやかな笑顔で、気持ちよく出迎えてくださいました。お茶を戴いて、すぐ近くの木でがんばって子育てをやり通した四十雀のお話をうかがいます。無事に9羽もの子どもたちが巣立ったようです。
 さあ、作業開始です。

二年目ということもあって、草刈り機のエンジンのかけ方や機材を扱うコツなど、少しは思い出しますが、まだまだです。それでも、ブルルル・・ウィーンと草刈りの刃が回りだすと、注意力・集中力が働き始めて、もう夢中です。

草刈姿


危険がないように、貴重な植物を刈らないように、“いい仕事”をするように、全身が集中します。
 エンジンがかかりだしたら刃から目を離さないことだけでなく、刃が木の根などにぶつかると、簡単に跳ね返る可能性があること、後ずさりをしていて後ろの何かに引っかかってしまうこと -- 自分がどの位置にいるか、どういう状態にあるか、常に注意していなければなりません。
 また、ちょっとしたはずみに、刃が貴重な植物や木の根にあたらないように、それでいて上手に刈れるようにするには、コツが必要です(それに、ニワトコ〔=切らない〕とタラノキ〔=切らない〕とクサイチゴ〔=限りなく生えているので切る〕の区別さえ、まだなかなか。芽が出てきたばかりの頃、葉がつき始めた頃、葉が広がって茂った頃、でみんな見かけが違うように思えます)。雑木林を荒らす、シノダケやチジミザサは、根っこからしっかり刈らなければなりませんから。
 それにね、”いい仕事”をするということの感覚も、なかなか難しいんです。刈り始めてすぐは、「きれいに、きれいに」刈ることに一生懸命です。”お掃除感覚”が抜けないというか・・・ そのうち、刈った場所を見て、何だか「つるつるのグラウンドにしたいわけじゃないんだぞ~」という気がしてきます。そう、去年S先生に、「芝庭を作るわけではなく、あくまでも雑木林の下草刈りで、われわれが思い立ったらすぐ散策できるように、それに邪魔にならないように」と仰っていたのを思い出します。そこで今度は、散策路周辺を優先的に、気持ちよく散策できるように、と考えながら刈っていきます。
 (後で、S夫人が「すぐに生えてくるから」と仰っていたので、やっぱり、でも、きちんと刈るのが基本でしょう)

そうした注意以外は、無心に草に向かっていると、雑木林の中の清潔な空間に青臭い香りが立ち昇ってきます。いろいろな植物の香りが混ざって広がって、わたしを包み込み、染めていきます。ウィーンという草刈り機の音は、非常に人工的ですが、それだけが聞こえ、後は何も耳に入ってきません。それが、奇妙に静かです。

-- これでした。わたしに必要だったのは。

草だけに、植物だけに、向き合っていられるのです。慣れないわたしには、結構な体力仕事ですが、全身の感覚を鋭くして、集中して使い続けます。雑木林の空間、青草の香り、身体感覚、集中するがゆえに生まれる沈黙と平穏。

左脳的な仕事、神経がすり減る気がする課題、人間関係の閉塞 -- そういう疲れは、こうしていると、みるみる癒されていくのですね。

ガソリンを入れ替えて、黙々と作業を進めると、段々頭の中が綺麗になり、自分が浄化されていくような気がします。

緑中の昼食


そして、美味しい昼食を、ゆったり贅沢に緑の中で戴きました。食前酒にナツハゼ・ワイン(一口だけだよ)、そして野菜スープにサラダ、絶品お手製のお漬物、お持ちしたパンいろいろ、です。
 ありがとうございます。

林内に咲くホタルブクロ

(林内に咲くホタルブクロ)
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黄色い、小さなハート

昨日の昼休み、研究棟の通用口から入ろうと業務用の駐車スペースのところへ曲がったら、コンクリートの空間の上に、小さな黄色いものが見えた。目立たなかったのだけれど、なぜか気になって、足を留めた。

何だろう・・・? あ、もしかするとカワラヒワ? と近寄ると、もっと小さくて ・・・ メジロが横たわっていた。そっと覗き込むとぐったりと仰向けになっていて、胸の鮮やかな黄色やおなかのあたりのオリーブグリーンがふわふわしていた。

一瞬にして、これはだめだ、と感じた。外傷はないし、掌にそうっと抱いても、コンクリートが熱せられているので、暖かい。でも、”もう命のないもの”特有の、何かが抜け切った、軽い感じを、否定したくても否定することはできない。まだ閉じられていない瞳も、落ち窪んでいた。

ただ、ほんの少し前まで、チーっと甘く切ないような独特の声を発しながら、大学の奥にある森の辺りを飛んでいたことは間違いない。

一体なぜ? 辺りを見渡すと、古い研究棟と新しくできたセンターの建物を3階で橋のようにつないでいる廊下が、上にあった。新しいセンターは、ぴかぴかのガラス張りが目立つ建物だ。・・・だからずっと、嫌だったんだ! この建物は! 建設立案中のとき、設計した偉い先生に「エコの人と、ハコの人(建築家)は合わないんだよね」と釘をさされた。出来上がって、小鳥がぶつからないように、というお願いを聞くだけは聞いてくれたのは、偉い先生方の内のたったお一人(一番偉かった当時の学長)。鳥がぶつからないように、そこに硝子があって通り抜けできないことを知らせるバードステッカーや、視覚効果を狙って鳥に知らせる方法は、あるのに・・・ (完全に効果を期待することはできないが)。そして、この建物ができる前は、ここに大きな松の木が幾つもあって、モズが子育てしていたんだよ。鳥たちは、今の残っている雑木林と、大学の池とを、ここを通って往復していたんだよ。

こころのなかで、地団太を踏んだ(悪態もついた)。

ついさっきまで、きっと生き生きと飛んでいたのに。瞳も、円らで煌めいていただろうに・・・

メジロをそっとハンカチに包んで、研究室に戻り、水を嘴や目の辺りに静かにたらしてみた。やっぱりだめだった。仕事が終わって、そっとかけてあったタオルを取ってもう一度覗いたけれど、やっぱりだめだった。そのタオルにくるんだまま、小さな、清潔な紙箱に入れて、家に戻った。

夕闇濃くなって、人が少なくなるのを待って、このメジロが安らかに眠れる場所の見当をつけて外に出た -- スコップを持って、(やり切れなさに)アルコール一杯ひっかけてから。

途中で、白い綺麗な侘びすけの落ち花を拾った。この白い花が、なぐさめとなりますように。

メジロのお墓


早くまた、生まれておいで。今度は、バードサンクチュアリで、一緒に遊ぼうね。食べものの乏しい冬は、蜜柑や林檎、蜂蜜水をあげるからね~ また、チーッと鳴いて、木の花の蜜を吸いながら、飛んでいてね。

花屋さんを通りかかって、本当に久しぶりに、香り芳しく、姿の良い、黄色い薔薇の花を買い求めた -- 少し緑色を帯びた、やわらかな黄色が、あの子の首もと、胸の上部の辺りと同じだったのだ。

黄色い薔薇

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森とつながる ~『クリシュナムルティの日記』より2~

サンコウチョウ

(サンコウチョウ K氏撮影)

1973年10月のある日の日記で、クリシュナムルティは何世紀も前に書かれたサンスクリット語の祈りの一部を引いている。

 願わくば神々の間に、天空に、星々の間に平和のあらんことを。
 地上に、人と四足の獣たちとの間に平和のあらんことを。
 我ら互いに傷つけ合うことなく、互いに寛大にならんことを。
 我ら自らの暮らしと行ないを導く叡智のあらんことを。
 我らの祈りに、我らの唇に、我らの心に平和のあらんことを。

この古代の祈りの中には、個人的な事柄への言及がない -- 個人的な事柄はもっと後になって生み出されたのだと、クリシュナムルティは述べる。

*******
 緑の輝く野と木漏れ陽の射す森を通りぬけ、さらに向こうへ一本の道がつづいている。安らぎに満ちている。栗鼠(りす)たちがいる。ときおり見かける鹿は臆病で用心深く、すぐに逃げ去ってしまう。栗鼠たちは枝の上からあなたを見おろし、ときどき、叫び声をたてて叱っているようだ。森には夏の香りと、湿った土の匂いがあった。途方もなく巨きく、苔むした老木が数本ある。老木たちはあなたを歓迎し、あなたは暖かい歓迎を感じる。あなたがそこに座り、枝葉越しに素晴らしい青空を見上げるといつも、あの平和と歓迎があなたを待っている。・・・(以下略)   
   (J.クリシュナムルティ『クリシュナムルティの日記』 宮内勝典訳 
    めるくまーる社 より抜粋)
*******

 そういえばわたしも、小さな頃から、木の頂(いただき)をふと見上げると、その木が、暖かさや、こころを透明にさせたり潤いをあふれさせてくれるような眼差しをして、”目を合わせてくれる”ことがあった。小学校から移り住んだ武蔵野の欅の大木、<世田谷の小京都>寺町にある、薄紫の花を煙るように咲かせる桐の木、そしてもっと小さな頃住んでいた名古屋市東山の山中を真っ赤にしていた躑躅の群れたち、さらに小さな頃(四国に住んでいた)に見た庭のヤツデの木や無花果の木。そういう木々は、たいてい、自分よりもずっと大きい、古い木で、慈愛に満ちた“目をして”いたように想う。目が合った瞬間、胸の奥から尊敬に近いような感情が溢れて、安心して自分を委ねられるような気がした。そうした眼差しに包まれていると、木と自分とが同化して、限りなく透明になっていくような気持ちがした。
 こんな感じを懐いたことのある人は、少なくないと想う。

 大人になっても、きっと本質的にこれは変わらない。街路樹が切られたり、街角のシンボル的存在だった一本の大きな木が切られて、「哀しい」「もうそこを通りたくない」という声も、周りからよく聞く。

 クリシュナムルティは、別の日、同じ森を他の人々と一緒に通ったときのことを回想する。そのときは「よそよそしさと沈黙があった」。

*******
 ・・・・・人々は樹々の気高さや荘厳さに気づきもせず、無関心でお喋(しゃべ)りしていた。樹々とはなんの関係ももたず、だからたぶん人間同士でも互いになんの関係ももっていない。(『クリシュナムルティの日記』より抜粋)
*******
 
 樹々と関係していない人々は、人間同士でも関係していない、とは厳しい。だが、多くの人々が、人間同士の関係性を、思考の条件付けや、固定観念やイデオロギー、自分のイメージや欲望の作り出したもので捉えていることを指摘し続けてきたクリシュナムルティにとっては、真の関係性とは、そういうものではない。人間の思考が作り出してきたものを取り去ったとき、命と命のつながり、そして命のつながりの中にあるものは、何であろう。クリシュナムルティは、自分を「あなた」と呼んで、次のように書いている。

*******
樹々とあなたとの関係は完全で直接的だった。樹々とあなたは友人であり、地上のすべての樹木、繁み、花とも友人なのだった。あなたは破壊するためにそこに居たのではなかった。植物たちとあなたの間には平和があった。(『クリシュナムルティの日記』より抜粋)
*******

ここで言う、「平和」とは何だろうか。それは、政府がもたらすものでも、一部の人たちによって奉ぜられるものでもない、と彼は言う。圧政は腐敗や衰弱を呼ぶ。規律は、地球上のすべての人々に関わるものではないし、自由を破壊する。平和を買うことはできないし、知者が発明することもできないし、祈りや契約や取引によって生み出すこともできない。
 森を通るとき植物たちとクリシュナムルティとの間にあった平和、ここで言う平和は、瞑想の中にある。クリシュナムルティの瞑想は、意識的に座ることでも、特別な行法でも、秘儀的な技でもない。「観る者は観られるものだ」と彼は言う。観察されるものと観察する者、経験されるものと経験する者を分断するのは、思考だ。知識や経験から引き出されたすべての思考を取り去ったとき、外なるものと内なるものの区別はない。「ただ全体があるだけだ」。思考が、断片化を生む。区別をやめたとき、全体性がある。ひとかけらの思考もなく、観察者もないまま観ること -- そのとき「ある神聖さ」に気付くことができる。

*******
・・・・・ あなたは立ち止まる。あなたは樹々を観、鳥や通行人を観る。それは幻影ではなく、心が自身を欺くようななにかでもない。それはそこに、あなたの目のなかに、あなたの全存在のなかにある。蝶の色が、蝶だ。
 (『クリシュナムルティの日記』より抜粋 別の日の日記)
*******

特別な「瞑想行」ではなく、生きている間、こうした知覚を保つこと。細心の注意を払って、そうした状態の中にある秩序に目覚めていること。それが、クリシュナムルティにとっての瞑想ではないか。この日の日記は、次のように終わっている。

*******
 瞑想の中に平和がある。瞑想自体がその動きだ。それは発見されるべき目的地ではない。思考とか言葉によって組み立てられたものではない。瞑想の行為が知性だ。瞑想は、あなたがこれまで教えられてきたことや、経験してきたことではない。学んだり経験してきたことを捨てるのが瞑想だ。経験する者から自由になることが瞑想だ。関係の中に平和がないとき、瞑想にも平和はない。それは幻影とたわいない夢への逃避にすぎない。それは論証することも描写することもできない。あなたは平和の鑑定家ではない。もし平和がそこにあれば、あなたは日々の生活での行動、秩序(オーダー)、あなたの人生の美徳を通じて、ただ気づくはずだ。
 その朝は重い雲と霧におおわれ、雨になろうとしていた。青空がふたたび見えるまでは数日かかるだろう。しかしあなたが森の中へ入っていったとき、あの平和と歓迎の気配はすこしも減っていなかった。全き静寂と無限の平和があった。栗鼠たちの姿は見えず、草むらのキリギリスは黙り込んでいた。丘と谷の彼方に、絶え間なくうねる海があった。
  (『クリシュナムルティの日記』より抜粋)
*******

 きっと子供時代は、森や草原、海、そして植物たち動物たち虫たちをそんな風に見ていたし、今でも、草の上に寝転がって木漏れ陽を見上げると、世界はそんな風になる。空を行く鳥たちの飛翔が、力強く過ぎていく。巣立ったばかり若鳥の《この世界に生まれたての喜び》が、ここに溢れている。(昨日は、まだ嘴の黄色いハクセキレイが足元近くへよちよち歩いてきて、そんな感じだったよ)
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森が聖地となるとき ~『クリシュナムルティの日記』より

森林であろうと、草原であろうと、海辺であろうと、そこに佇んだとき、静けさや穏やかさ、あるいはその場所の息吹のようなものが感じられるときと、そうでないときがある。

森は、どのようなとき、聖なる森となるのだろうか。

『クリシュナムルティの日記』の中の、この一節がずっと気になっている。

*******
 その夕暮れ、森のなかを歩いていくと、なにか威嚇するような感じがあった。太陽はちょうど沈んだばかりで、椰子(やし)の樹々が金色の西空を背景にひっそりと立っていた。サルたちはバンヤン樹のなかで夜にそなえていた。道を通るものはほとんどなく、人に会うのは稀だった。それでも威嚇の気配は重くみなぎっていた。それは周囲にあり、あなたは肩ごしに見まわした。危険な動物などいなかった。そこは町に近すぎるので、そうした動物たちは遠くへ立ち退いているはずだった。その森を通り抜けて、灯りに照らされた街路を帰っていくことができたとき嬉しかった。しかし、翌日の夕暮れ、猿たちも鹿たちも依然としてそこにいて、太陽はちょうど高い樹々の背後にあった。威嚇の気配はもう消えていた。それどころか、樹々や、藪や、小さな草木はあなたを歓迎してくれた。あなたは親しい友人たちに囲まれ、まったく安全で、最高に歓迎されているのを感じた。森があなたを受け入れたのだ。そして夕暮れごとにその森を歩くことが楽しみとなった。
 密林はこれとは違っている。そこには蛇や、どこかに潜んでいるはずの虎に襲われるような肉体的な危険がある。ある午後、密林を歩いていると、あたりが突然、異常なほど静まりかえった。鳥はさえずりをやめ、猿たちは完全に静止し、すべてのものが息をひそめているように思われた。その人はじっと立っていた。そして、また突然すべてのものが活気を取りもどした。猿たちは互いに戯れ、じゃれ合い、鳥たちは夕べのさえずりをはじめ、その人は危険が去ったことに気づいた。
 人が兎や雉子(きじ)や栗鼠(りす)を殺す森林には、まったく違う雰囲気がある。かつて銃と人間特有の暴力で荒された世界に、あなたが入っていく。すると、森はやさしさや歓迎の気配を失い、そこにある美しさも、あの幸福な囁(ささや)きも去ってしまう。
      (J.クリシュナムルティ 『クリシュナムルティの日記』
       宮内勝典訳 めるくまーる社 より)
*******

暴力で荒らされた森に、あるいは死んでしまった森の跡地に、わたしたち人間の沢山の愛を注いだなら、いつかまた森は、やさしさや歓迎の気配、そこにあった美しさ、幸福な囁きを取り戻して、わたしたちを受け入れてくれるだろうか。わたしたちにそれだけの力はあるだろうか。

『クリシュナムルティの日記』は、クリシュナムルティの鋭い批判精神が浮き彫りになる多くの対話集などとは異なり、自然を一筋の光のように照らし出す描写が基調となっている。彼の読者の中には「期待はずれだった」と評する方もいる。しかしわたしは、この『日記』と出逢い、衝撃を受けて、彼の著作を読みふけるようになった。そして今でも、これが一番好きだ。
 その自然描写は、明晰で強靭な精神、あらゆる思考の幻影による曇りや翳りのみじんにもない、無垢そのものの目を通した自然描写だ。そして、人間社会の作り出した思想やイデオロギーのいずれにも属さず、人間の意識の根源的な変革を語っていた哲人、クリシュナムルティが、深い自然の中でどれほどのインスピレーションを受けていたかが感じ取れる。『日記』の自然描写は、森林や川の水の流れ、猿や鹿や山猫、栗鼠や草木や花々と対話できる者にだけ、綴ることができる描写だと思う。

この文章に誘われて、静寂と平穏の中に佇むとき・・・

わたしたちには、森の声が聴こえている。

大学キャンパスの貴重な森

 (大学キャンパスの貴重な森)
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