hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

わたしの耳は・・・ ~『海からの贈り物』~

夏の夜、どこからか海の音が聴こえてくる気がするときがある。海辺に住んでいる訳ではないので、あくまでも空想なのだが、遠くの方で大波のうねり、ざわめき、響き・・・ が高まっていくのが次第に感じられて、その響きと同化して寝返りを打つ。

その波の傍らでゆらりと力を抜いていると、いつの間にか海水の中を漂っていることもある。海の水は生命の水だ。ときどきこうやって、自分の細胞の一つ一つが生きるための根源的な力を取り戻して、再生しているのかな、と想う。

夏はこうやって、濃くて明るすぎる光の反射と、同じく濃くて深すぎる闇が吸い込んでいくものとの間に、普段は見えなかったり聴こえなかったりする何かがあって、その多くが生きることと死ぬことに関係しているような気がする。

生きることや死にゆくことについて、普段もあれこれ想うことがあるのだが、そうした問いかけも、夏はごく容易に、すとんと、根源的な問いかけとなる。

海辺の貝や空を飛ぶ鳥のように、わたしたちの生き方、わたしたちの生活も、もっとずっと簡素であっていいのではないだろうか。もしわたしたちが、無駄を省いて簡素にできたなら、わたしたちはもっと、自分自身と調和した状態になることができるのではないだろうか -- ものをはっきり見て、邪念に悩まされず、生活の中心にしっかりした軸をもち、そして、外面的な調和にそのまま変わり得るような内的な調和を得るのではないだろうか。

1906年アメリカ、ニュージャージー州生まれのアン・モロー・リンドバーグ(Anne Morrow Lindbergh)は、そうした精神的な調和のあり方を、「『恩寵(おんちょう)とともに』ある状態」と呼んでいる。20世紀も前-中半のアメリカの生活を、すでに「煩雑さ」をきわめたものと彼女は感じている。そこでは、「質ではなくて量が、静寂ではなくて速度が、沈黙ではなくて騒音が、考えではなくて言葉が、そして美しさではなくて所有欲が、価値の基準」となっており、それに対して彼女は、仕事と家族とその時代のアメリカで一般的な交際関係に恵まれ、その時代にを生きる女性として、妻として、母親として、「人間を幾つにも分割する圧力に対して自分を守れるだろうか」と自らに問い掛けた。

それは現代のわたしたちにも共通する問いであるが、わたしたちを取り巻く煩雑さは、益々厳しいものとなっている。商業的な物質や情報・情報機器の多様化と過剰、人々との関わりあい方やコミュニケーションの多様化と変容、そしてその中で生み出され均質化された価値観がわたしたちを飲み込む様は、現代日本では圧倒的だ。そして、これらを消化せざるを得ないわたしたちの多くは、リンドバーグが発したような問い掛けを自分に突きつけることを、うまく回避したり、あえて見過ごしたり、あるいはその日その日の解消で精一杯のまま却下したりすることに、益々巧みになってしまった。

それでは、リンドバーグはどうしたのだろうか。

彼女は浜辺に行き、不必要なものを一切捨て、「どれだけ少ないものでやって行けるか」工夫しながら、静かで簡易な生活を始めた。不必要な物資を捨てることは、同時に、精神においても不必要なものを捨てることになった。そのような生活では、住居を虚栄心から飾り立てることはなかったが、風と日光と松の木の匂いが通り抜ける住まいが「美しい」という発見があった。リンドバーグはしばらくの間、そこで独りで、海で泳ぎ、浜辺で貝殻を広い、思索したことを紙にペンで書くという生活を始めた。浜辺で拾った貝殻を耳に当てて、そこから展開したり回想されたことは、『海からの贈り物』という珠玉の本に書かれている。

仕事場や家族をおいてのそのような生活は、もちろん容易なことではない。しかし、彼女は敢行した -- 自分自身が自分と調和した状態にあり、内的な平静や曇らない目をもち、ありのままの姿でいられ、家族や仕事場に戻っても多くのものを与え続けられるように。与え続けても自分が減らされず、与えれば与えるほど、更に与えるものが湧き上がってくるためには、与えることの意味を観ることができなければならず、さらに、与えたものを補う源泉で満たされることが必要だから。

それには、どうすればいいのか。

一人になること、というのがリンドバーグの答えだ。そして、こころの奥深いところの静寂を保つこと。

とても不思議なことに、わたしのことを知る、数人の尊敬する友人が、各々別の機会に『海からの贈り物』を「Sumikoさん読む?」と教えてくれたり手渡してくれたりした。不思議だったが、どこかでこの本が、わたしの「琴線に触れる」、あるいはもっと深く影響を与えるものであることを彼女たちは看破してくれたのだ(オリーブの木のある、光一杯の家に住むM.Fさん。ありがとう!)。ひとつひとつの章が、「ほら貝」「つめた貝」「たこぶね」といった海の静かな命たちを取り上げて展開されており、文章の中からは絶え間なく浜辺の波音や、もっと沖の大波の音、あるいは深海の揺らぎが聴こえてくるようだ。

この夏、この本の中で、人間が人間以外の生きものたちの<聞こえない声を聴く>ことがどのようなことなのかについて、煌めく一節に出遭った。次に引用するが、この一節は、わたしを金色の光で包むように幸福にしてくれる。

是非、読んで下さい!!

*******
 私はこれでまる一日と二晩、一人で暮らしたことになる。私は夜、浜辺に出て星の下で一人で寝転がっていた。一人で朝の食事を用意し、波止場の端で私が投げてやる餌(えさ)を鴎(かもめ)が拾っては舞い上がり、また水面を目掛けて飛んで来るのを一人で立って眺(なが)めていた。それから午前中は机に向って仕事をして、遅い昼飯を浜辺で一人で食べた。そしてそうやって私の同類から離れていると、私は他の動物にもっと親しみを感じることができるようだった。私の後の砂洲(さす)に巣を作っている臆病(おくびょう)ものの鴫(しぎ)や、濡(ぬ)れて光っている向うの波打際(なみうちぎわ)を恐れげもなく駈(か)け回っている千鳥や、私の頭の上をゆっくり羽ばたきながら飛んで行くペリカンや、背中を円めて不機嫌(ふきげん)そうに水平線を眺めている年取った鴎や、そういうものと、わたしは一種の繋がりがあるという気がして、その繋がりに喜びを覚えた。地上と、海と、空の美しさが私にとって前よりも意味があって、私はそれと一つになり、いわば宇宙の中に溶け込んで自分を見失い、それは寺院で大勢のものが賛美歌(さんびか)を歌うのを聞くのに似ていた。「神を讃(たた)えよ、海の魚の群、--空の鳥、--人間の子供たち、--神を讃えよ」
 その通り、私は一人でいて私の同類にも前よりも親しみを持つことができた。なぜなら、我々を他の人間から切り離すのは地理的な意味での孤独ではなくて、精神的な孤独だからである。我々を我々が愛している人たちから遠ざけるのは無人島や、砂漠(さばく)ではない。それは我々の頭の中に拡がる砂漠、または心の中の荒地であって、そこを我々は行く所もなくてさ迷っている。自分が自分に対して他人であるならば、我々は他人に対しても他人であることになって、自分と接触がなければ、他人に近付くこともできない。私は大きな都会の中にいて、誰か友達と握手しながら、その荒野が横たわっているのを何度感じたことだろうか。私たちは二人とも、かつては私たちの生命を養っていてくれた泉を見失うか、或いはそれがいつの間にか涸(か)れてしまったのを発見して、そうして荒れ野の中をさ迷っているのだった。自分自身の心臓部と繋がっている時にだけ、我々は他人とも繋がりがあるのだということが、私には漸(ようや)く解ってきた。そして私にとっては、その心臓部、或いは内的な泉を再び見付けるのには一人になるのが一番いい。
 (リンドバーグ夫人 『海からの贈り物』 吉田健一訳 新潮文庫 「つめた貝」の章より)

流木と貝殻と石

 (大切な友人たちから戴いた流木で作った鳥と貝殻と石)
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曙光を浴びて

バード・サンクチュアリが形となって、畑仕事をするのはまだ先ですが、今は土に触れていたくて、今年はミニトマトを育てています。春に植えた10号鉢の苗がすくすくと大きくなって、ベランダの手すりを支柱に、陽光を求めて伸び上がってきました。”ミニキャロル”という名のトマトです。
ミニキャロル

黄色い小さな花を沢山つけてくれて、その花の一つ一つが明るい緑の実となって -- 。一昨日頃から、梅雨の合い間の太陽を受けて、その一つがオレンジ色に染まり、今朝はこんなに紅いです。

トマトの葉っぱって、やっぱりトマトの匂いがするんだよ! お日様の匂い。
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街で出遭えた

コンクリート・ジャングル、ビルの建設現場、舗装道路 ・・・ 夏の陽の照り返しが厳しい街の中心部、その植え込みの中に、咲いていた。

ヤブガラシ


ヤブガラシの花。写真では緑味が強いけれど、丸い花弁のいくつかは、オレンジ・シャーベットの色に染まっていて、小さいけれど可憐だ。どこからか風で飛んできたのだろう。植え込みの木の間を縫って鳥足状の複葉を伸ばし、光を求めて絡みつきながら繁みの上まで上がってきて、花をつけた。

一般には、庭でも田畑でも、「たちの悪い雑草」として刈り取られる草だけれど、こんな街中で、地味だけど綺麗な花を咲かせている。

微笑んでいるその花のいくつかに、数匹の蜂たちが集まって、今が大切とばかりに蜜を集めている。人が行き過ぎるだけの街なか、その真中にいる蜂たちに気付いたおかげで、このヤブガラシの花に出遭えた。見ているうちに、黒アゲハチョウまでやってきた -- 彼らは、どこからやってきたのだろう。どうしてこの花があることを知ったのだろう?

ヤブガラシは、ブドウ科の多年草。荒地、あき地、土手、河原などいたるところに生育する。巻きひげで他の植物に絡みつく。花の後の果実は、紫黒色。
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小鳥とシャワー

夏が来ると、かかせないのが水シャワー! 

古い宿舎に住んでいるのだが、コンクリで固められ隣とも密接して、しかも風通しも悪いので、部屋は暑い、暑い。何かすると、その後すぐ水シャワーを浴びて、リフレッシュして一息つく。(お湯は、決まった時間にしか出ないので、必ず水シャワーだよ)。

今朝も、朝7時から太極拳の朝練に行って戻ってきたら、やはり暑かったので、早速シャワーを浴びた。

小露鈴もついてきて、一緒にシャワーを浴びる。そう、毎年恒例、夏の季節は、小露鈴も一緒にシャワーを浴びるんだよ。換羽が終わってすっかり元氣になった彼女は、先週あたりから始めた。

お風呂場に行って、薄暗くて怖くないように、昼間でも電気をつけて、水シャワーを浴びていると、すぐに水音につられて、お風呂場の床にぴょんぴょん。水音には、何が何でも惹かれてしまうらしい。しばらくは、水の当たる辺りが怖いのか、ためらっている。そのうち、水しぶきを受けて、水の中に入ったときのように、翼をばたばた。それから、水の当たる方に(わたしの足元の方に)思い切って、ぴょんぴょんやってくる。もう水を浴びたくてたまらない、といった感じ。そして、正に”びしゃびしゃ”になるまで水を浴びる。

水量は、小鳥には結構強いので、気をつけて気をつけて。でも、少しかかるくらいだと物足りないらしい。シャワーの水がまともにかかるところで、水を全身に浴びる。床を流れる水で、流されないよう、気をつけて気をつけて(本当に、そのくらい水に浴びたいようだ)。でも、やっぱり当たる水が強すぎるのではないかと、恐い。それに、こちらもからだに水をかけているのだが、足元をぴょんぴょん動き回る小露鈴を踏んだり蹴飛ばしたりしないよう、彼女が何をしているか一瞬足りたりとも目を離せない。

-- と、常に細心の注意を払わないと危ない感じがするので、<小鳥とシャワー>はあまりお奨めしません。でもね、『鳥っこ倶楽部』というコミックス・シリーズに文鳥漫画を連載している今市子さんが「いつか文鳥とお風呂に入るのが夢」と書いていたが、小露鈴とシャワーに入れるなんて、やっぱり嬉しくなってしまう。

最初は、シャワーを浴びる間待っててね、と止まって待っていてもらったところ、お風呂場に入ってきて、まさかと思ったがこのシャワー・タイムが始まった。彼女が2、3歳の頃のことだ。多分、水音や水浴びがやたら好きだから、そして彼女に、いつも一緒の行動をしようとしてくれる心意義があるから、こんなことになったんだと想う。

シャワー1


小さな器の中での水浴びと違い、白いふわふわの羽毛の奥までびっしょりと水が染みて、その下のピンクの皮膚が透けるようだ。時間をかけて、羽のお手入れをして、乾かしていく。

シャワー3

シャワー2

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