hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

秋水

キビタキ雌

   (キビタキ雌 K氏提供)

夏前から、随分とこころの闇が深くなっていったように想う。

bird sanctuary を創立する夢が、候補地の土地交渉のため一旦「待つ」ことになって、〝でも、土地確保をしたところで、それが sanctuary のゴールなのではない。そうではなくて、自然と人とが調和し、小鳥たちがずっと安心して生きていけるような、(人は)樹木や小鳥の声に耳を澄ませて、こころ豊かな対話ができるような、そんな世界を広げていくことこそが、わたしにとって sanctuary の光を広げていくことなのだ。そういう意味で、sanctuaryはプロダクツではなく、プロセスなのだ。そして、今この瞬間も、そのプロセスの中にいるのだ〟 -- と信じてきた。

〝どこからそういう世界を広げるかというと、自分のこころの中からなのだ〟と感じ始めた頃、身近な関係で、所属するこもごもの組織関係で、そしてメディアから入ってくる様々なニュースの中で、将棋倒しのようにショックなことが起こった。それは、自分が「闇」と知覚するから闇なのだけれど、自分のエゴというちっぽけな地点に立つと、これでもかと言うほど暗い闇の中に陥れられていくように見える、そんなことが続いた。

本当に笑ってしまうほど(!)続くので、やけくそなわけではないけれど、これは偶然ではないと感じ始め、そこから〝きっと何か学びがあるのでは〟という地点に立つまでには、さして時間がかからなかった。

光が拡がれば拡がる程、闇もまた濃くなっていく。

光をもっと広げたいという希求を抱くからには、より深い闇に向かって拡がっていくための強い翼と軽やかなからだが必要になってくる。

何よりしんどかったのは・・・
自分の〝外側〟に知覚する深い闇に対する、自分自身の恐怖、その恐怖からくる激しい反応 ・・・ そうした内側にあるものこそが本当の闇の正体なのかもしれないが、これほど暗い、底抜けの闇が自分の《内側に》見えたのは、衝撃であり、驚きであり、正直辛いものだった。

とは言え、もし数年前にそれを目にしたなら、恐らく耐えられなかったであろうから、今、淡々としてそこにある、それを見つめることができるのは(丁度、一条の、青みを帯びた澄んだ月光のように)、見つめるだけの器が自分の中にできたということなのかもしれない。

結構辛くなったとき、何故か(4年程前から続けている)太極拳に惚れ直し、とにかくはまった。バランスの取れた美しい動きをスローに連鎖させていく太極拳は、動く禅と言われる。しかし、本来は武術である。そのゆったりとした美しい動きは、どのような〝敵〟〝力〟が押し寄せてこようとも、本来、崩されることがないという。そんな、武術としての太極拳をしたいと想った。

生まれて初めて、〝強くなりたい〟と感じた。これまで、〝強さ〟とは〝力〟(→〝暴力〟〝権力〟)と通じるので、嫌うところがあった。ずっと以前から、尊敬する氣功の先生に「繊細であればあるほど、強くなければいけないよ」と教えられていたのだが ・・・ それでも、強くなろうという想いが湧くことはなかった。「暴力」ということが、この世界で最も嫌うことだから。弱いものや儚いもの、繊細なものが、そのままに生き続けられる世界が欲しかったから。

太極拳では、〝人間は元々強い〟〝生まれたときから自分を守ってきている〟と考えるらしい。その強さは、何があっても自分のバランスを崩さず、元々の自分らしくいられる、ということなのだ。たとえ暴力、攻撃を受けても、それを同じレベルや土俵で、力をもって返すことはしない。責められても責め返すのでも、引き下がるのでもない。相手の力を感知して、その力を借りながら、攻撃を受けないように自分のバランスを整えるのだという。実際、それだけのことなのに、攻撃してきた相手がどんなに力んでも動ずることがなく、相手の方がくずおれたり、ふっとんで行ってしまう。〝やっつけてやろう〟と〝戦い〟を挑んだ相手の力に従うように動くとき、相手は意表をつかれて、戦う気力がなくなってしまうという。そんな太極拳は、友好の武術だと言われている。

太極拳の動きが本当にできるために大切なのは、相手を感知して適切に動くことができるようになる、その身体感覚と同時に、何があっても安定してリラックスしたこころでいることなのだと言う。遠回りのようだが、これを身体を通して学べることによって、sanctuary 創立のために必要な何かが、自分の中に注ぎ込まれていくように感じる。

そして、先日、小露鈴がわたしの手の中でくつろいでいるとき、そろそろ、自分の中の闇を深く掘り進むのは、もういいんじゃないかと想った。

 「いま、ここに、美しい小鳥が、安心しきっている。
  わたしは、その小鳥を静かに見つめている。」

それは、それだけは確実に、ピュアなことであり、愛であり、喜びである -- そこに光があり、それを見つめなさいと言われているように感じる。

土地交渉の次第によっては、もう、現地のこれと想うところに(小さくても庭付きの)家を借りてしまおうと想う。週末だけになるが、現地で、自分の足と頭、こころを使って、土地を知り、自然を知り、人々を知っていくことによって、これという土地も絞れる、絞っていきたい、と想う。
 小さくても庭付きの借家なのは、小さな餌台や草木を植える場所さえあれば、規模は小さくても、小鳥のために何かできるから。
オオルリ雄

   (オオルリ雄 K氏提供)
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ドラゴンフルーツ

自然食品店でずっと気になっていたドラゴンフルーツ。白い生地にキウィのような黒い粒つぶの入ったところが果肉らしい。でもそれより遥かに目を引くのが外側の鮮やかな赤紫のいろ ・・・ 「ショッキングピンク」という色があるけれど、これは「ショッキング赤紫」だ。どうしても目を奪われる、南国にしかなさそうな色 ・・・ (食べものとしてはどうなのか)

色に目を奪われつつも、そのままだったのだけれど、先日半分にカットされたそれが「見切り特価」で一個だけ残っていた。輸入高級フルーツは、エコロジー的に「◎」でないような気がするけれど、何かのチャンス、ご縁と想って食べてみることにした。一生に一度、ドラゴンを味わってみるのも( ← 「龍の味」なんだろうか?)悪くないかもね。

今朝の朝食に、ヨーグルトと共にそのドラゴンフルーツをいただいた。

ドラゴンの味の刺激というほどではなかったが(?)、とても刺激を受けたのはわたしじゃなくて、小露鈴 ・・・!! わたしがいただく食べもの、特に朝食は、自分の食べものだと了解している。グラノラやミューズリや、ヨーグルトは、特にねらっている! (中に入っているナッツ類や胡麻がねらいなのだ -- 註)でも、鳥さんには、人間の食べものを食べさせては絶対いけません)。

ドラゴンフルーツに、興味津々なんだけれど ・・・

 ドラゴンフルーツ


どう見たって、このショッキング赤紫は怖いでしょう! 

赤やオレンジなどの強い原色、特にそれが補色を伴う縞々なんかだと、小露鈴は一目散に逃げていく -- 畑などにある野鳥よけでも、原色使ったチカチカするマルチカラーなどが用いられているから、わかる気がするんだけれど。小露鈴やgaeaちゃんのおかげで、わたしには、決して着られないお気に入りの服や帽子があったりする -- こちらは何ごともなく大丈夫な色・デザインと思っていても、すっとんで逃げていって、過剰に防御姿勢をとる。

それに、この果肉の白い中に黒い粒つぶの散らばっているのも、やっぱり怖いでしょう!

それでも、筋金入りの好奇心(食い意地?)からか気丈に立ち向かおうとする小露鈴。近寄っては逃げて、首を伸ばしてはからだを引いている。あの~ わたしの腕に乗るとき、いつもはとても優しいタッチなんだけれど、このときはぎゅっと爪を立てて、痛いんだけれど ・・・

********

ドラゴンフルーツはサボテン科ヒモサボテン属の多年草。ピタヤと呼ばれるている多肉植物で、樹高は10メートルほどになるという。原産は南メキシコ、中央アメリカ諸国で、熱帯に分布されている。果実は楕円形で、花とつぼみも食べられるらしい。病害虫・暑さ・旱魃に強く、農薬もほとんど不要だという。

ピタヤにはビタミン、繊維、ブドウ糖及び人体に有効なミネラルが多く含まれていて、健康、自然食品、美容食品らしいですよ~。


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稲田姫神社

九月初めの週末、再び笠間を訪れました。
今回は、笠間の西にある稲田神社にお参りに行きました。

以前、白鷺の写真集についてブログでご紹介しましたが、その写真家、絹針弘己さんが中国山水の写真のDVDを発行されたので、『陶歌』さんで落ち合い、『陶歌』さんの皆さまとご一緒にいろいろお話しました。憩いの空間でお話しているうちに、話は氣功や太極拳のことになりました。わたしは、氣功は約六年、太極拳は四年近く、修練しているのですが、絹針さんは最近こうしたことに興味をお持ちだそうです。

お昼近くになった頃、何故か突然、

「わたし、これから、稲田神社に行きます」

と宣言していました。

「my bird sanctuary を創立できますように・・・!」という想いで、笠間と言えばこれまで大井神社にお参りしてきたのですが、この日は何故か、大井神社(笠間の北側)ではなく、「稲田神社」(笠間の西南)の名前が口をついて出ました。以前、山や巨石と対話のできる、尊敬する方のサイト(http://www.loving-earth.com/philosophia/ss060325.htm)で紹介されていたのを、ただ覚えていて、何故かその日は、そこだ!という感じでした。

笠間の人々は「稲田姫神社」と呼ぶのだと、『陶歌』さんにうかがいました。

同行すること、しかも運転手を買って出てくださった絹針さんと道に迷いながら辿り着きました。

稲田姫神社参道

山道を登っていくと、子供たちの遊ぶグランドがあり、その奥の、そのまた奥の閑かな空間に神社がひっそりとありました。蜩の声が降り注ぐだけで、人の気配は全くありません。
稲田姫神社1

入り口のご神木は大きな大きな木(槇の木でしょうか?)で、清々しい香気が立ち込めるようでした。幹に両手を当てると、手が、そしてからだ全体が浄化されていきます。木に“おきよめ”してもらってから、お参りをしました。
稲田姫神社3

静かで、穏やかで、清々しい気持ちになります。夏前から、自分の内側の闇の濃さに気付かされることが多かったのですが、何だかとてもさっぱりしました。

境内の横で、関心をもってくださっている絹針さんと一緒に、ちょっとだけ太極拳と氣功の練習をしました。両足の裏(湧泉穴)が拡がっていくような太極拳の歩法で、大地とつながって歩みます。そして、ゆっくりと、限りなくスローにたおやかに、からだを動かしていると、何だか神聖なものとつながっているような気持ちになりました。
 氣功の先生に教えていただいた呼吸法もやってみました。大地から透き通った綺麗な地下水を汲み上げてからだを洗い、天の高いところから綺麗な光を集めて、からだの内側を洗うのです -- 心地よかったです。

ご神木


わたしの所持するちっちゃいデジカメなので限界はありますが、絹針さんが御神木を撮ってくれました。わたしだと、撮影するのさえオコガマシイ(し、実際にうまく撮れなかった)のに、さすがです。この木から漂ってくる芳しい何かが伝わってくるようです。
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