hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

KEEP GOING !

年の暮れ


2006年が終わろうとしています。
一年、本当に有難うございました。
こころから、感謝しています。

今朝は今年最後の太極拳の朝練がありました。年の瀬だというのに、先生方も、参加してくださった方々も、目が澄んで力があり、からだの軸がしっかりとしてて、良い氣に充ちた練習でした。先生は、最後の最後だというのに、休憩時間まで気になっていた動きをコーチして下さった ・・・ 感謝と尊敬! 

無心に太極拳をしていると、透き通った朝の氣がからだ中に満ちてきて、芯から喜びと感謝の気持ちが溢れてきた。この一年、皆さまありがとうございます!

「来年が、良い年でも悪い年でも、しっかり歩いていこうと想います」

と書きそうになって、”おいおい、普通は「来年も良い年でありますように!」とか「来年こそ良い年にしたいです」と書くでしょう”、と思い留まった。”読んでくださる皆さまにとって、縁起でもないよ”。う~ん、そうなんだけどさ、ナニガアッテモ《歩いていく》という気構えを表現したかったんだけど。だから、まあ、ナニガアッテモ”良い”年ということなんだけど。

来年、どんなことがあろうとも、まっすぐに自分の道を歩いていきましょう! 皆さまがいつも、光と調和と愛と共にありますように! 

c&g1

     (なかなか撮れない小露鈴とgaeaちゃんのツーショット)

Keep the serenity inside yourself
Love all the creatures
Listen to the voices of the Nature
Embrace trees, care for birds and animals, and
SAVE THE EARTH AND OUFSELVES WITH ALL OUR HEARTS
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sattva

ヨガをしながら、何だかサンスクリット語がちらつくようになった -- 昔覚えた言葉が音や響きになってやってくる感じ。

スーリヤ ・・・ スーリヤって ・・・ 何だったっけ? 言葉の意味はちっとも出てこない。ボケたかな? というか、でも、何故言葉の音や響きの感じだけ覚えているの ・・・?(昔から、外国の言葉を習うのだけは、好きでした)。三日ほどして、「あ、スーリヤ・ナマスカーラ(太陽礼拝)だ!! 月の礼拝が、チャンドラー・ナマスカーラだから、”スーリヤ”は太陽ってことね」 -- とやっとパズルが嵌まる。

バードサンクチュアリの土地交渉のことで、今年一年、結局候補としていた土地自体は駄目になっちゃったけれど、そして駄目になった11月以来、結構回復と再生に時間がかかっちゃったけれど、きっとこれも何か意味のあることなんだ。(ようやく資料や、候補地で撮った写真を整理できるまでになりました)

氣功の先生が、平塚のI先生(サイトhealing the unhealed voicesのmy bird sanctuary参照)に逢われたようで、早速に電話を戴いた -- アチャー、土地交渉の契約を決めた二日前、平塚の練習に参加して、そのときは全て上手くいくつもりだったので、はしゃいで偉そうなことを言ったまま、結局失敗したのでお詫びに行こうと思ってまだ行けていなかった。

「『何か良いことをしようとすると、必ず魔が入る。それを乗り越えたときに、何もかもが見えるようになる』だそうだよ」

「『魔が入る』って、邪魔ということですか? それともこころの闇のことですか?」 -- 無知で、さらに”闇を抱えた”ような気持ちになっていた疚しさが手伝って、思わず質問した。『魔が入る』は、お釈迦様の修行のときに現れた、いろいろの邪魔のことらしい。う~む。何か恥ずかしくなってきたぞ。

「あんな偉そうなこと言ってはしゃいで、合わせる顔がありませんです」
「そういうときこそ、平塚にいらっしゃい、と仰っていたよ」

はあ~申し訳ありませんです。年明けには、必ず参ります。ちゃんと修練を積んでおくことを、固く、固く、誓います。

氣功の先生は、わたしがめげていないこと、「自分の意思や力ではどうにもならないことがあることが分かった」ことも伝えてくださったらしい。

 ・・・ 「また、土地を探す」 -- それだけじゃなくて、それも現実面ではしっかりやっていくんだけれど、「いま、ここ」の一瞬一瞬、存在全てが命や自然の繋がりの中にあるのが、はっきりと感じられる気がしてきた。土地としてのサンクチュアリは、もちろん自然保護とか野鳥保護とか里山保全とか《鳥や樹などの生きものたちと人間との調和や対話》に近付くための大切な現実の場所にしたい。けれど、sancutuaryは、囲いを作って、内に”美しいもの”を閉じ込め、”外は醜くてもしかたがないや”と内外の間にバリケードを張り巡らすようなものじゃ、きっと、ない。聖と俗、美と醜、善と悪 ・・・ 二元的な世界を考えて、現実から、生きている世界から逃避するんじゃないんだよ。「いま、ここ」の世界が、即座にsancutuaryでなければ駄目なんだ。(鳥は、囲いを越えて飛んで行く。野生動物が絶滅したり、奥地に追いやられてしまった今も、鳥はわたしたちの身近なところで、生きててくれている)

感謝の気持ちで年末になった -- たくさん、たくさん、優しい言葉や力になるもの・支えになるもの、教えを戴いた。土地のことが解決してからも、これから進むためのエネルギーをたくさん戴いた。言葉や行いや恩恵の中で、たくさんのことがシンクロした。 --ありがとうございます--

それを集約するとすれば、突然閃いたサンスクリット語、sattva(サットヴァ)だ。またしても、意味も思い出せず閃いて、からだや住んでいる空間で響き続けた。sattva、sattva、sattva・・・なんだったっけ? 

調べてみた。sattvaは、一般に、アーユルヴェーダの言葉で、からだやこころを占める三つの性質のうちの一つ、ということになるらしい。サットヴァという性質は、純粋、調和、光輝、知性、意識の向上、有情(うじょう:情 〔こころ〕を有するもの。 生きとし生けるもの)等々いろんなことを包含する性質みたいだ。でも、一言で言えば、「純粋(性)」だろう。

他の性質は、ラジャス(動性:攻撃性や怒りなども含まれる)とタマス(暗性:停滞やねたみ・恨みなども含まれる)。人間のからだやこころに、サットヴァの性質が増えて他の性質が減ると、人は公平で、慈愛に満ち、正しい判断力を持つことが出来るという(アーユルヴェーダって、まだ全然理解の域に達していないんだけれどね)。

ともかく、様々な恩恵に感謝しながら、分かっていったのは、外面的にはどんなに良いことをするする、と宣言したり行動したりしていても、内面で、ラジャスやタマスを増やし続ければ、葛藤があり破綻するということ。サットヴァ -- からだやこころに、純粋性や光を呼び込まなければ。

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小鳥や大きな樹々や清水や森をなかなか護れないのは、辛いけど、でも、「いま、ここ」の光と幸せから、再出発しよう。

既に、次の土地候補を色々と調べたり、土地入手や管理運営の新しいやり方(失敗して初めてヒントを戴いた)を構想したりしているけれど、少し前まで笠間だけは -- まだ気持ちが延びなかったんだ。(他の場所を見て歩いたりしていました) 

でも、2007年は、新しいやり方で、また笠間から行ってみよう。

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(小露鈴と一緒にいられる「いま、ここ」、小露鈴大好きだよ!)

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生きる・・・!

冷たい雨

冷たい雨が激しく降りつける今日の午後、住んでいるところのすぐ近くで狸を見つけた。雨に濡れそぼってはいるが、ふうわりした尾っぽ、一瞬たりとも警戒を怠らないしぐさ -- 狸だ。

開発されつづけて、林どころか、残り少ない樹々さえ刻々と切られてしまう場所なのに、狸はどこから現れたのだろう? 野鳥達の様子でも分かっていたが、この冬は本当に、それほど山に、食べるものがないのだろうか? 野鳥達のことで以前も書いたが、心配になる・・・

「秋の来訪者」(10月28日)で書いたヒヨドリ二羽が、相変わらずベランダに来てくれている。このベランダは、片道三車線もある非常に大きな通りに面した宿舎7階にあるのだが、それでも、ちゃんとどこからかやって来てくれる。この頃は、その通りの街路樹のどこかに止まっているのか、わたしがベランダに出て、小さなベランダ・ガーデンに水をあげたり、洗濯物を干したりして、その後で彼らのごはん(蜜柑やサツマイモなどを細かく切ったもの)をちょっと出して、中に入ると、その途端、やってくる。

どこかで見張ってでもいるように、必ず直ぐに、ピーッと強い声をあげて飛来する。

たまに、洗濯物を干すだけで、彼らに贈る食べ物がないときなど、それでもしっかり来てくれるので、困ってしまう -- どれだけ、がっかりさせたのかと。

雨降りの今日は、窓を閉めるか閉めないかの内に、感極まったような声をあげてやって来た。

ピーッュ ピーッュ

その声は、感覚的にどことなく聴き覚えがある -- 音質は違うけれど、夏の初めに、大好物の胡瓜の初物が初めて手に入り、いそいそと出すと、すぐに飛びついて、夢中で食べながら小露鈴があげる声 -- やっと食べられる!! もう食べることだけに夢中で夢中で、それが声になっているときの声。

ヒヨドリ君、本当におなかがすいているんだね。

雨に濡れる椿


がんばって食べて、生き延びてね。

その命を・・・!

************

 神を全てのなかに見、また全てを神のなかに見る者は、
 神を忘れることがなく、
 神も亦忘れることはない。
    (前田行基 『詩篇: 瞑想のヨーガ』 バガヴァッド・ギーターより)
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詩篇

汀(みぎわ)から落ちて溺れそうになっても、無明世界に足を掬われてまたとなく暗い闇に沈みかけても、意識を天に向けて静かに瞑想すると、天・人・地を結ぶ一条の白い光はそこにある。

ヨガを始めて25年、そして氣功、太極拳とも出遭うことができて、人誰しもの内側を貫く光の存在を、不変なものとして観ずることができるようになった。緊張や不安、溜め込んだ煩悩やストレス、こころの暗闇、そんなことが表面化すればするほど、目を閉じて静かに呼吸していると、純白の光が煌々と降りそそいでくる -- 表面的な心理状態・ショック状態がひどいときほど、そうなのだ。

八月に感じたこころの闇もそうだったけれど、バード・サンクチュアリ創立のための候補地の土地契約で寸前のところで失敗した後も、葛藤があった -- とりあえずのトラブル解消・ショック解消、そしてその土地や人々と築いてきた想い・祈りと向き合うこと、それだけなら良かったのだけれど、それ以前から身につけてきた執着(心配、不安、自己否定、自信喪失、被害者意識、依存など)のパターンが甦ってきたようで -- 大掃除が必要となった。

自然に懐かれている幸せな気持ち、樹木を敬う気持ち、小鳥を愛する気持ち -- 命を慈しむ気持ち、それだけになれればいいのにね。

〝強くなければ優しくなれない〟 -- 〝弱くて優しいものがいてもいいじゃない?〟とも思うのだけれど、自分自身に関しては、今は強くならなければ優しい気持ちが戻ることも、それを護ることも出来そうになくて、「強くなりたい!!」とまたまた太極拳に打ち込んだ。そして数週間、それだけではまだだめだったのだが、瞑想すると、ようやく本来の自分に戻れるのが分かった。そして、清浄な瞑想をするために、しばらく(マイブームとしては太極拳に押され気味だった)ヨガに打ち込もうと想った。

前置きが長くなったが、そうする中で久し振りに手にとって、こころの中に染み入ったのは、やっぱり前田行基著『詩篇 瞑想のヨーガ』(マインドウェア)だ。前田先生は、インドで数々の偉業を成し遂げられた偉い先生だ。インド・マハトマ・ガンディー大学教授ほかで教鞭をとられたり、ライ病患者センターを創立されたりして(創立にあたって、反対運動を鎮火するためガンディーさながらの断食<ウポワズ>もされた)、日本では日印教育協会総裁を勤められている。日本で、この断食<ウポワズ>の講習会があって、二度ほど参加させていただき、サンクチュアリ創立にあたっても言葉をかけていただいた。

『詩篇 瞑想のヨーガ』は、インドの長編叙事詩『マハーバーラタ』の中にある『バガヴァッド・ギーター』から、第六章の瞑想のヨーガの詩句を註訳されたものだ。インドの神々の中でも人気の高いクリシュナ神の物語『バガヴァッド・ギータ』は、インドの聖典と崇められ、すでに翻訳も出ている。だが、『詩篇 瞑想のヨーガ』の訳は簡明で、そして何よりそこにつけられた注釈によって、誰でもにギーターや本来のヨガの意味や現代日本社会におけるその必要性が易しく伝わるようになっている。

 例えば冒頭で、

 シュリークリシュナ神は曰く
 行為の結果を期待せず、為すべき義務を遂行する者は
 ヨーギーであり、真のサンニャーシーである。

という句があるのだが、見開き反対側のページの注釈で、
 
  シュリークリシュナ神とは、聖なるクリシュナ神という尊称で、
 バガヴァット・ギーターでは最高神として、ヨーガの真髄を説法する。
  「目的の為には手段を選ばず」とは、マキアベリズムやマルキシズム
 の警句であるが、「目的の為には最善の手段を尽くせ。そうしてその
 行為の結果に期待せず、また執着するな」というのが仏陀の教えである。
 マルキシズムと仏教は、四民平等という考え方においては共通しているが、
 手段と結果についての思想は大いに異なる。
  最初の句では、仏陀の根本的思想が引用されている。そして自己に
 与えられた義務、または職場を天職として遂行する者はヨーギーであり、
 真のサンニャーシーだというのである。
  ・・・ (中略)
  サンニャーシーは出家者のことであるが、物質的な欲望を放棄した人
 で、世間の一般的な執着心を捨てた遊行者である。
        (前田行基 『詩篇 瞑想のヨーガ』 p.30-31より)

と説明が付されている。

「目的の為には最善の手段を尽くせ。そうしてその行為の結果に期待せず、また執着するな」は、ちょうどマザーテレサのDVDを貸してくださった方がいて、その内容と相まって、泣かされましたね~。

さて、この本が伝える最も大切なことは、

 人間とは生まれながらに内に〝真我〟を包蔵している

ということだと想う。真我とは、自己の神聖意識であり、最高神(宇宙)に直結する神性・仏性・霊性でもある。人間は、自らのアートマン(自我)を向上させて、努力精進を重ねて、プルシャ(真我)を顕現し、更には宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)に帰していかねばらない。
 どのように努力するかと言うと、小欲知足で、自己を制し、様々な形態の修行をするのだという。ヨーガとは、日本で一般に知られているポーズや体操、健康法だけではない。ヨーガによる学びは、この本に挙げられているだけでも七種類にのぼる。行法は、八段階もある -- 八段階目に、宇宙と一体となるサマーディがある。(ただし、安定し調和のある瞑想のためには、からだの動き・呼吸・意識の使い方を学ぶことも大切だと、この本は説いている)

それぞれの人が、それぞれの入り口から、自分の好きな道を通って進んでいっていい。そして、釈尊が示された通り、苦行ではなく、〝中道〟で悟りの道へと向かっていけば良い -- 行法について、これまで知った中で最も納得できることを、この本は示してくれている。その上で、日々のからだや呼吸・意識の使い方、そして瞑想が何故、いかに大切かも、教えてくれている。

終章で、前田先生は、古代人が人間性を次のように語っていると紹介されている。

 全てのもののなかに神が潜む
 神は鉱物のなかで眠り、
 植物のなかで夢をみ、
 動物のなかで目覚め、
 人間のなかで自らの姿を顕わさんとしている。

そして、釈尊の「一切衆生悉有佛性(しつうぶっしょう)」という言葉にも言及されている。

 ・・・ 〝自分の内側を貫く光は、鉱物にも植物にも動物にも貫いているんじゃないだろうか〟、〝とっても楽で自然に、鳥から生まれ変わってきたり、鳥に生まれ変わっていくような気がする、自分って変?〟と感じてきたわたしは、大いに安らかな気持ちになれたことだった。


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師走のhappy!

師走も真っ只中。職場では正(まさ)しく思わず〝走っちゃう〟くらいなんだけれど、それでも本当に本当に疲れたときは・・・ ほんのちょっぴり・・・
小露鈴


いつでも一緒に、〝お昼寝〟してくれる白くてふわふわの温か小露鈴(ちろりん)!
人間の掌の深みは温かいのか、手の中でまあるくなってしゃがむ小露鈴が温かいのか ・・・ 小露鈴やgaeaちゃんとの〝お昼寝〟は身もこころも温まります(人間が本気で〝爆睡〟すると、危険なので絶対にいけません -- それに小露鈴の場合は、眠りながら撫でていないと駄目なので、実は人間は眠れない)(小露鈴のバックには、染色家阿久津悦子さんの薄紫やモーヴ色に染まった「石路(つわぶき)」のタペストリーがあります)

夕刻の雲


年末・年始と大変ですが、どうぞ皆さまスローなひと時を^^
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松の樹をたたいて

昼休みに通ったキャンパスの小路 -- 大学の奥は、まだ豊かな雑木林が広がっている。すぐ近くで、コンコンコンコンと音がした。

 あっ、キツツキ
 アカゲラだ!

すぐそばの半分松枯れの始まった松の幹にアカゲラの雌が止まって、一生懸命、樹をたたいている。

 コンコンコンコン

本当に近くにわたしが立ち止まっているのに、振り向きもしないで一生懸命叩く。時々、乾いた樹の皮がめりっとはがれる。ほんのちょっとの間、嘴を幹に押し当ててもいる。人間の目には見えない、小さな虫か、虫の卵でもいるのだろうか。

 コンコンコンコン

突然、彼女は樹を叩きながら、「キョッ」と声を出す。息を潜め、ずっと見守っていると、叩くと同時に時々声をあげている。その様は、小露鈴が雑穀や小松菜を食べているとき、食べながら発する声と似ているかもしれない。小露鈴に関して言えば、何かに集中しているとき、その身体動作に伴って、声を発することがよくある。(人間で言えば、作業をしながら〝掛け声〟を挙げたり、作業のための歌を歌ったりする感じ?) 

でも、アカゲラが、無心に作業に集中しつつ漏らしているその声は、ちょっと切ない響きをもっている。森の奥に住むはずのアカゲラが、こんな人通りのある路で、松の幹以外には目もくれず、ただただ叩きつづけているのは、何とか食べものを見つけて、命を繋ごうとするゆえに他ならない。

鳥や獣たちの姿ではっきり分かることだが、この冬は山の実りが少ないらしい。栄養豊かなブナの実がならないために、熊達が人里に下りてしまうとニュースで言っていたが、ここつくばでも、秋の早いうちから普段ならまだ山にいるはずのヤマガラやカケスが、キャンパスの林に下りてきていた。

神さま、森に実りを残してください。そして、鳥や動物達が頼りにしている山や森がこれ以上切り払われてしまうことがないように--。

人里に下りてきた鳥や動物達が、人に「迷惑をかけ」たり畑を荒らしたりして、人間と摩擦を起こすことが少なくて済みますように。そして、交通事故や農薬にやられることなく、無事に一冬越せますように!

 コンコンコン キョッ

すぐ近くにいるアカゲラは、頭の輪郭までとてもよく見える。黒い目が大きくて、後頭部のくびれが綺麗な形だ(絶壁頭の逆)。そうっと通り過ぎると、少し高い枝に止まり直したが、それでもまだ幹を叩き続けていた。

晩秋の筑波山

 (晩秋の筑波山)
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中西悟堂資料保存館

先月(11月)の話となるが、〝野鳥の父〟と言われる中西悟堂氏の思想や活動を後継しようと言う方々の主催で、『中西悟堂生誕111年の集い』が開催された。

中西氏は、戦後の復興期、日本の国土の自然が開発の名のもとに暴力的な破壊にさらされ、日本人が大切にしてきた自然と調和して生きていく精神性が崩れ落ちていくのに警鐘を鳴らし続けた思想家・文化人・宗教家だ。そして、野鳥保護を中心とした自然保護活動を様々な形で展開した活動家でもある。それまでは人間がいじめたり殺したり籠に入れることしかしてこなかった野に生きる鳥たち(〝野鳥〟は中西氏の造語!)を、

「野の鳥は 野に」

のスローガンと共に、自然の中に生きる姿を愛でていこうという自然愛好・野鳥愛好の精神をうちたてたのも彼だ。残忍なカスミ網猟や狩猟に反対し、当時の鳥類学者から文学者・画家などを集め、自然科学的認識に基づく自然観察と、自然を愛でる文化とを融合させるような〝探鳥会〟を開くなど、幾つもの画期的な活動をなしとげた -- 現在わたしたちにおなじみとなり、みんなで楽しむことのできるバードウォッチングや、四季折々の美しい野鳥を自然のままに慈しむすべも、彼あってこそ培われたと思う。 

『集い』にあたって、最初に、横浜市山手町にある中西悟堂資料保存館を、故人のご家族のご厚意で見学させていただいた。
資料館

資料館の入り口には、野鳥のレリーフが飾られている。館には中西氏の書いた書籍、文書、描かれた絵、集められた野鳥関係のもの、そして氏と交流のあった人々の資料がぎっしりと集められ、整理されていた。

悟堂業績

氏の業績の概要が解説されている。鳥類保護や環境保全に関して成し遂げたこともぎっしりである。日本初のバードサンクチュアリ創立も果たした。

生前中西氏と交流のあった方々、中西氏を慕う、あるいは後継者となろうとする方々が沢山集って、館内にひしめき、人いきれがして間もなく外に出た。その後開催された座談会も盛況で、熱気に溢れていた。

普段は公的な場で発言するのは大の苦手なのだが、資料にはない、関係者が捉えている〝生きた〟中西悟堂の思想が聴けることを期待して、わたしもがんばって発言し、質問を投げかけた -- 特に、氏の自然観やサンクチュアリ創立にあたっての理念・背景的な東洋思想など、核心の部分に触れたかったから。おかげで座談会でも、その後の交流でも、様々な人から氏の多様な横顔について教えていただくことが出来た。

だが、あんまり多様すぎて、そして人間臭い面を人間臭く話していただいたり教えていただいたりしたせいで -- 混乱してしまった。中西氏は幼少時に仏門で修行をし(21日間の断食、21日間の滝行、21日間の瞑想)、小鳥達が臆せずに肩にとまるようになったという。その後も、氏が歩けば、野鳥達がついてきたと聞いて、わたしは感激し、「これは絶対に本当だ!」「核心をつかめば、人間はそのようになるんだ!」と確信してきた。だがそんな逸話さえも、打ち消す話がないわけではなかった。一方で、氏の直弟子や後継者を名乗る方々も沢山いらっしゃって、流れは一様ではない感じがした。

結局、中西氏の人となりや社交的なところ、現世でのことの奥に、わたしが求めていた〝核心〟はどこにあるのだろう。いや、中西氏の「人物像」が知りたかったのでもない。組織や社会における成功が知りたかったのでもない(環境保護において、東洋的な〝自然との調和〟〝山川草木悉有仏性〟といった日本人の情緒から発しながらそれを社会的な合意形成にまで導いた秘訣は、知りたくはあるけれども)。

 氏は、野鳥達とどのように触れ合っていたのだろう。
 野に生きる彼らの目を通して、どのような自然の広がりを感じていたのだろう。
 瞑想をしながら、おそらくは宇宙的なつながりの中で、鳥たちを初めとする命たちにどのような愛を注いでいたのだろう。

その答えを知るためには、まっすぐな瞳で関係資料を見つめ、濁りのないこころで人々の語ることを聴く必要がありそうだ。いや、氏の人となりを深く探っていったとしても、それだけでは得られそうもない -- 氏個人の考えや思いを見極め、そのまま後続することが、わたしのなすべきことではない。むしろ、氏を抗いがたく突き動かしていた何か、熱く強力でありながらも静謐で慈悲深い何かは、この一瞬一瞬移り行く自然や自然と交わる人間のこころの中にこそ、見つけられるのかもしれない。

 氏はどこまで自然と一体化していたのだろう。
 そのような一体化の境地に至ったとき、肩にとまる一羽の野鳥に対してどのような愛が注がれていたのだろう。

資料館の池

 (資料館裏手の池。植物にも関心が深かった中西氏の希望により、多様な植物が運び込まれ、植えられている)
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