hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

菜の花!

文鳥さんは菜の花が大好き! 小露鈴は(gaeaちゃんも)今日も黄色い花びらをむしゃむしゃと食べている。濃い黄色の花びらが床に散らばり ・・・ 小さな小さな春!
菜の花と小露鈴

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光と、愛

光のあるところには、闇がある。自分の内なる世界においても、“外のもの”として映るこの世界においても。その昔、大学卒業も間近となった頃、親友の彼氏のご両親のところに、親友に連れられて遊びに行ったことがある。その日「彼氏」は不在だったのだが、それより何よりそのお父様というのが、大きな会社の社長さんで、穏健でゆったりとした大人の方で、落ち着いて面白いお話をしてくださる方だと親友に聞いていたため、楽しみにしていた。

今でこそ流行りの言葉として言われる「瀟洒な」「豪邸」に伺って、ご両親に暖かく迎えられ、ゆったりとした午後の時間を過ごしたように記憶する。しかしその空間・時間は、今浮ついて言われる「セレブ」にまつわるものではなく、教養と品格に溢れ、落ち着いた温かな気持ちが流れていたように想う。その話の一番最後に、急にお父様はわたしの目の奥を、静かだが射るように見据えてこう言った。

「あなたは、綺麗なことだけで生きようとするでしょう。Yさんも(親友の名)そうだけれど、あなたはもっと、そういう傾向がある。この世には、綺麗なものもそうでないものもある。純粋なだけでは、生きられないよ」

穏やかで優しいそのお父様、わたしたちの前では、何でも聞いてくれて何でも答えてくれそうだけれど、大きな会社組織を経営して健康も犠牲にするくらい働いて、きっと厳しく生き抜いてこられた方。“綺麗ごとだけでは済まされない”世界の厳しさも知り尽くしてこられた方 -- 二十歳そこそこのわたしは、無条件に尊敬していた。その方に、こう言われて、そんなものなのかな、きっとそうなんだ、と受けとめた。「澄み切った水の中には、魚は住めないのかな」

それから数ヶ月で社会人となり、理想とは違う職場の現実に真正面から向き合うことになって、それまでずっと《ピュアに生きる》《要らないものは何もかも削ぎ落としていってピュアで自然な生き方を極める》のが信条だったわたしは、いつの間にか「この世で仕事をしていくには、99%は折り合わなければならない。でも、残りの1%、自分の核となる一番大切なところは、絶対に譲らない」という言葉をよく口にするようになっていた。

しかし、久し振りに大学時代の友人、大学の「野鳥の会」の同期であるIさんと会って、その言葉を口にすると、「え?! Sちゃん(わたしの名)、どうして99%を譲らなければならないの?! その100%が大切なものなら、わたしは100%譲らないよ、譲るなんて絶対に嫌だよそんなの!」と言われた。彼女に言われて、そのつい数ヶ月前までは、わたしも100%を掲げて生きようとしていたことを思い出した。社会人になって数ヶ月で、わたしは100%を1%に下げたのだ、と思った。そのIさんは、当時のわたしたちからすると「スタンダードな」就職活動をせず、「自分は非営利団体に就職する」という意思を曲げずに、正社員にこそならなかったが国際的な人道活動をしている非営利団体でアルバイトを始めた。そこでの理想と現実とのギャップから生じた苦しみは随分と重かったようだが、しばらくしてそこで出会ったベトナム難民の一人と恋をした。しかし、家族を殺され身一つで命からがら逃げてきたというその難民の方は、故郷の思い人のことを忘れ去ることはないと聞いた。Iさんのことは、案じつつ連絡を続けてきたが、結局は音信不通になってしまった。

わたしはそれからまた、100%に憧れ、しかしながらそれでいて、しっかりと握り締めた1%さえ不確かに感じられるような日々を過ごしてきた。生きていくうち、自分がピュアだと感じてきた1%のかけらが急に濁って感じられたり、自分がかつて「汚い」というラベルを貼って脇へ押しやったものの中に、きらきらと光るものが潜んでいるのが見えたりするようになった。昔は、綺麗なものと汚いものが、すごくはっきり、澄んだ水と砂のようにきっちりと分かれて見えたのに、そう見えたその瞬間、別の様相が見えるのだ。清純無垢な美少女のすぐそばまで行くと、オキレイな彼女の袖口や襟元は汚れていて、彼女の生き方に潜む不潔さが映し出されていることに気づく。一方で、キタナイと決め付けていた街角の娼婦がとても美しい命の持ち主であることも稀ではないのだ。本当に綺麗なものは、絶対に留まっていない。その反対も然りだ。キレイキタナイを分けている思考は、次の瞬間、別の切り口を見つけ、別の分断をする。そして、そうした二元論的思考から抜け出ることはない -- キレイハキタナイ、キタナイハキレイ -- まるでシェークスピアの言葉のように、わたしの《ピュアに生きる》に絶対はなかった。

光と闇。今の時代、真っ暗闇の中にいるように感じられても、きっとどこかに明るい光がある。少なくとも、自分の心に光を灯そう。その光を広げていこう。破壊されつつある地球の自然も、きっと再生に向けての力を潜ませている。これまでずっと、光を灯し続けてきた先輩や仲間達もいる。まだずっと先まで暗くとも、希望を捨てないで生きよう。

光と闇。光のあるところには、闇がある。自分の内なる世界においても、“外のもの”として映るこの世界においても。光が広がろうとすると、闇が濃くなるように感じられる。その闇を抱擁しつつも、光も消さないようにしよう。それができるだけの強さを持とう。

光と闇、光と闇、光と闇 ・・・ 

だが数日前、J.クリシュナムルティの言葉を読んだ。

彼のもとに訪ね来た人の質問、「真実は、幻想の中に含まれているのではないでしょうか? 暗闇は、光を含んでいる、または隠しているのではありませんか? 神は束縛の身に宿されているのではないでしょうか?」に応えて、彼は言う。

-- 光があるところには、暗闇はない。暗闇は光を隠すことはできない。もしそうなら、光がないのだ。嫉妬があるところには、愛はない。観念は愛を包含できない。共感するためには、関係がなければならない。愛は観念とは無関係であり、そしてそれゆえ観念は愛と共感することはできない。

愛は煙のない炎であり、愛の炎は暗くさせる煙の中にはありえない。この両者は相共にあることはできない。明るい炎があるためには、煙はやまねばならない。炎は煙のライバルではない。それはライバルをもたないのだ。煙は炎ではない -- それは炎を含むことはできないのである。また煙は、炎の存在の現われでもない。なぜなら炎は煙から自由だからである。
     (J.クリシュナムルティ 『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー1 クリシュナムルティの手帳より』 春秋社 より)

ここで、クリシュナムルティは、人間の思考や観念を超え、それゆえ二元性を超えたところに在る、至高の愛や光について語っている -- と分かったような浅い解説をするより、言霊だ! 「光があるところには、暗闇はない」とクリシュナムルティにズバッと言われて、雷にズバッと打たれたように衝撃を受けた。

北海道原野を朝から晩まで歩き回っていた大学時代、親友YちゃんやYちゃんの彼氏のお父様、Iちゃん、社会人になってからのこと/なるまえのこと、知識を詰め込み「知的」と言われる人々の仲間入りをすることで何か見えてくると信じていた頃のこと、それからのこと、etc.etc. 急にフラッシュバックした。

夕映え

光と愛 -- Iちゃん、Yちゃん、クリシュナムルティ、わたしはまた100%だよ。でもその100%の質が、ちょっと違ってきたような気がする。全てがあって、全てがつながっていて、それを静かに看ている。じっと耳を澄ましている。全ての痛みが疼き、全ての喜びが輝き、全ての生が響き合い、全ての死が悼まれ、癒されていく。わたしと共に在るsanctuaryで。
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rebirth

今度こそ、バードサンクチュアリを創るための土地をしっかり探さなきゃ。

3年想いをかけた候補地が、結局駄目になってしまった11月から、すでに幾つか不動産屋斡旋の土地を見たりもしていたのだが、それはまあ助走運転で、今度は本気で、きちんとした形をとって進めていこうと思う。

まず、沢山の樹が植えられる場所/手入れすることによって、その土地在来の植物がすくすく伸びていけるような可能性いっぱいの場所 -- 地球の緑を増やすためだから。そして、できれば多くの人に、樹を植えたり、世話しに来て頂きたい。

それと少し被るけれど、ずっと残されていくような場所。鳥たちが喜んで飛来し、そこで木の実や水、冬の厳しい時期には補助の食べものなどを頼りにできて、さらに出来れば、人がいても安心して人を信じ、人と友達になれるような場所 -- そのためには、できるだけ多くの人が、サンクチュアリを愛して下さることが一番だ。

予算がごくごく限られている上、手に入れたいような土地は「物件」として不動産ルートに乗ることも無く、持ち主との接触も難しく、そういう方々にご理解いただける可能性があったり、ふと売らなければならない事情ができても、そこにリンクする手立ては無い。できれば、そこを手にすることで、自然保護にとって重要な環境(例えば、渡り鳥の貴重な中継地など)を守ることになったり、こころない開発を防ぐことになる土地がよいのだが ・・・ 

11月に土地契約に破綻したとき、全然関係の無い三人の方から、「そういう話なら、土地の人でない個人がいくら頑張っても無理で、行政に頼んでみるしかないのでは」と助言された。お役所と名のつくところ、お役人や手続きの書類など、これまではとにかく苦手だったが(信じられないことに、自分だって公務員の端くれだった過去があるくせに)、土地を手に入れた暁には、環境対策を万全にするつもりなので税金の優遇等は相談しなければと考えていた。それと、サンクチュアリを守る活動が軌道に乗れば、そして協力してくださる方々がいれば、NPOとして永続的に土地を管理していく可能性もあること、そのときの税金措置も考えなければと、行政に相談することは射程に入っていた。

だが、企画の段階で相談となると、一等先にきちんとしたヴィジョンをもち、さらに出来れば理解していただきやすいような企画書も書きたい。それに、まず、どこに持ちかけるのさ? 守るべき場所、自然再生の可能性を最大限に展開していける場所、職場から通えるかなど自分でも力を出し切れる場所 ・・・ 渡り鳥が羽を休め、栄養補給するときに、人として何か力になれる場所がいいな。在来の雑木が美しく育つ場所がいい。水が豊かで、鳥たちのための水浴び用の池は作りたい。鳥たちが頼りにしてくれ、守られている環境が無ければならない。人が控えめに、最低限アクセスできる土地である必要もある。対抗するにしても、自分の力量を超えた開発や環境汚染、周囲の不理解にさらされる可能性のある土地は効率的ではない。自分の職場を起点とすると、つくば市、石岡市、筑西市、霞ヶ浦市、笠間市、牛久市 ・・・ これまでの経験から、どの土地にも異なる特色がある。市役所に出かけたところで、各々の行政でどう対応してくださり、どう反応されるかは、きっと様々な色があるだろう。11月のショックが癒えた今、笠間のことを想うとやっぱり光を感じるが、客観的なデータもしっかり集めたい。

勉強しなければ。

冬枯れの筑波山
 (冬枯れて乾燥した山並み。つくばから八郷へ抜ける朝日峠 -筑波山腹より-)

土日も夜も職場の仕事でずっとへとへとだったが、ようやくその狂騒が少し緩み、療養されていたS先生のところに突然押しかけた(前もって電話するとお断りになる気がして、お見舞い品だけ渡すつもりで)。ずうずうしかったけれど、快く、しかもすっきりと回復された良い笑顔で迎えてくださった。

いろいろと懐かしくお話して、嬉しかった。少しだけサンクチュアリの土地探しのことも話題に上り、御助言や新企画に力になってくれそうな方をご紹介いただいた。

筑波山やそこから北上する山並みで、渡り鳥たちのルートや彼らにとって大切なスポットを知ること (そう言えば、日本野鳥の会にもIBA -Important Bird Areas in Japan- を守っていく計画があったっけ。筑波山近辺は対象地ではないし、わたしの計画の場合は、もっとローカルなデータまで必要だが) 地理の勉強、そしてその土地の植生や自然再生の可能性を検分できるだけの知識と実力を身につける勉強 -- わたしにはちょっと大変だ。

今度時間が作れたら、まず紹介いただいた方に会いに行ってみよう。

ベランダの黄薔薇

  (ベランダの黄薔薇が咲きました -- その数日後、ヒヨドリ君が花を食べちゃった<涙>。このベランダから見おろす光景は昔は森でした)

この冬の暖かさや気象異常について、「雪が降らなくて助かるわあ。スキー場では物足りないけど」などのコメントを聞く日も多いけれど、時に瞬く間に「戦争やってる場合じゃないよね!」「(何かできることをするしかないから)木を植えよう!」と気持ちの奥で誰かと通じ合えた日は、とても、とても、勇気をもらう -- 咲いてしまった白梅や紅梅は、それでも美しいが。
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STOP! IN THE NAME OF LOVE

この冬の暖かさについて、意識の深いところまで辿るなら、不安になっていない人は、多分一人もいないだろう。茨城県つくば市に住んでいるが、つくば市より県北に住む方々に聞いても、雪が降ったという話は聞かない。

全国的に起こる気象異常、天災。マスメディアでは、地球環境「問題」どころか、地球「破壊」のニュースを耳にするようになった -- 20世紀末、特に1980年代頃には、わたしたちが引き起こしている温暖化などの環境問題を「今すぐやめなければ、地球に未来は無い」という発言をよく聞いたが、2007年の現在、「地球破壊に関しては、藁をもすがるような状態」だと言う。かつて、地球の危機の臨界点の一つが、地球全体の温度が2度上昇する2016年だというのが定説だったが、そこからわたしたちは、それに歯止めをかけるどころか、最近のわたしたちの<経済発展・開発・森林伐採等の進度>からして2016年よりも早く、危機がやってくるという。

増加・悪化する自然災害、海面の上昇、様々な生物種の絶滅による多様性の急激な減少、それによって失われる国も増え、飢餓や貧困や格差も増大する。さらに、それらが新たな戦争やテロリズムの要因となることもありうる。そして、社会もわたしたち個人個人も、益々人々の閉塞感や精神の荒廃を感ずるようになることだろう。

多くの人のお気に入り、南極に住むペンギンたちも、ホッキョクグマも、まず生きていられない。鳥たちの多くも、多大な影響を受けるだろう。今のように森で歌い、巣づくりしたり、愛を交わし、卵から雛が孵り育っていくのを、まだずっと見守りつづけられるだろうか。大好きな背の高い樹々、草原の生きものたち、海や浜辺の生きものたち、動物たち、昆虫たち、植物たち・・・ わたしたちの多くは、いつもいつもその声に耳を傾けているわけではなかったが、それでもずっと、わたしたちに寄り添ってくれていた命あるものたち。

わたしたちが引き起こしている地球環境問題に関して、わたしたちの意識が変わるためには、

 ・わたしたちに7世代先のことを想像する力があるか

が重要だと言われている。人間は、自分のこと(生存、生活の利便、利益、豊かさ、社会的力、等)が大切で、次に、自分の子や親は大切にするだろう。だが、自分の子の、そのまた子どもの、さらにまた子どもの ・・・ と7世代先まで思いやることができなければ、資源は使い放題、自然や他の人々からは自分の利益になるものを奪えるだけ奪うだけで、終わってしまう。

だがわたしは更に、

 ・わたしたちに、七つ隣の種のことを想像する力があるか

を加えたいと、ずっと感じている。人という種の隣にいるのは ・・・ 人によってぱっと思いつくことは違うと思うが、一般には、チンパンジー・ゴリラ・オランウータンなどの大型霊長類で、それから先は、サルだったり、犬や猫、あるいはイルカ・クジラなどの哺乳類が続くだろう。そして、鳥類や爬虫類や魚類 ・・・ 植物や昆虫まで飛び進む人もいるかもしれない。生物学や動物学、植物学に詳しくなくても、わたしたちは”隣にいる何ものかの命”を想像してみることはできるだろう。
 そして、その想像力は、わたしたちも地球上で他の種と共に生きるヒトという種だということに気づかせてくれる。わたしたちも、自然のなかで、自然によって、生かされている生きもの、命なのだ。わたしたちも、自然の一部、ひとかけらなのだ。

7世代先どころか、2016年まで、あなたとわたし、わたしたちが直に知り、微笑を交し合う人々の多くは生きている。生きていかねばならない。それ以降もだ。7世代先、7つ隣の種は、ずっと、大変な危険にさらされてきた -- すでに、命を奪われてしまったものもある。そして、それどころか、わたしたち自身が、今、真実危ない。

それでも、日本やアメリカでは、経済発展の名のもとに、石油の消費や森林伐採・自然からの搾取にSTOPがかからないからといって、諦めてはいけない。こんなになっても、世界各地で戦争やテロリズムや飢餓や貧困や格差がなくならないからといって、諦めてはいけない。社会や、わたしたちのこころに(特に、幼い人々・若い人々のこころに)閉塞や荒廃が増すばかりだからといって、諦めてはいけない。

わたしは諦めない -- セミもトンボもカエルも蝶も、原っぱも花畑も浜辺も海も森も。小鳥のさえずりも、鳥たちと人間たちがいつか仲良くなり、森を散歩しながら、鳥たちが肩に止まって、挨拶してくれるようになるという夢も。

STOP! IN THE NAME OF LOVE!! ダイアナ・ロスの昔のヒットソングの題名です。

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