キュルルルッ キュルルルッ
切ないような、どこか物悲しい、でも甘い声。キャンパスにある人口池の上に張り巡らされたロープの上に、小さな鳥影が見えた。薄いけれど明るい橙色だ。最初、ジョウビタキかと思ったが鳴き声が違うし、「風の吹き曝すこんな場所に?」と気になって足を止めた。
キュルルルッ キョロロ
あ!! 鳥が向きを変えたとき鮮やかなコバルトブルーが見えた。
翡翠(カワセミ)だ・・・
冷たい風でブルンブルンと揺れているロープの上に、頑張って足でつかまってバランスを取っている。翡翠といえば池の端に立っている木の枝の上や、杭の上や太い草などに止まっている姿しか知らない。こうやって強く冷たい風の揺さぶるロープの上で踏ん張っているから、ジョウビタキと見間違うような姿勢になっているんだ。
驚いているなか、再び
キョロロロロ
と声がしたかと思うと、魚を求めて、彼は迷うことなくまっすぐ池の中に飛び込んだ。水の音がして -- しばらくしてもそれきりだ。
あまりにも長い間だったので、不安になって池の縁に近付く。そのとき
キュルルルルル
美しい光沢のあるブルーの背中が、またロープの上に現れた。
ああ、翡翠 ・・・ 自転車を止める音がして振り向くと、研究室の学生さんだったので、「しいっ」という合図をして「翡翠だよ」「あ、いるんですね!」と一緒に眺めることになる。が、私たちに気付いたのか、彼は背中を煌めかせながら池の向こう側の木の枝まで飛んでいった。「どこどこ?」としばらくバードウォッチング。
・・・・・
また逢えたね。
もう15年前になるが、最初にこの職場に通い始めた頃から、この池には翡翠が訪れてきてくれていた。キャンパスを歩きながら、美しいブルーの彼に挨拶することが、日々のわたしのささやかだが豊かな楽しみとなり、日課となった。ある年は、二羽で訪れてくれて、決まった時間に現れるので、池の向こう側の小山の奥の辺りで子育てをしているのだろうと思い、抜き足差し足、ひそやかな期待と喜びをもって過ごした。
だがある日、池の向こう側の小山と池の間にはコンクリの“回遊路”が作られ、小山は“綺麗に”整備された刈り取られた芝となった。
それから二羽では、君達は現れなくなったんだ。
そして三年前のある日、池の水面中にロープが張り巡らされた。池の魚を食べに来るアオサギなどを撃退するためらしい。昔からキャンパスを知る同僚の一人は、ぽつんと「先生(わたしのこと)みたいに鳥・鳥って思わないけど、でもちょっとやりすぎじゃないの?」。-- 確かに、魚にも命があるし、無制限に食べ尽くされるのは困る、というのは分かるのだけれど、そのロープは水を飲みに来るスズメやウグイスなどの身近な小鳥たちや、水面を飛ぶ燕や蜻蛉、その水を頼りにしていた生きもの達全てを追いやってしまった。しかも、薄暗くなるとロープが見えなくなりそうで、誤ってロープに引っかかってしまう生きもの達が出てきたらどうしよう、とわたしは心配でたまらなくなり、毎日ハサミを携えて、池の周囲をパトロールした。
-- ハサミ? そう、もしも誰かが絡まっていたなら、そのときは(始末書、いや、退職覚悟で)「水の中ジャブジャブわたってって、助けるぞ~」
それから君はいなくなってしまったんだ、翡翠。
それまで数多くの学生さんたちや同僚達が「先生、あの、池のそばの木の上にいる、すっごく綺麗な青い鳥は何なの?」「あそこに翡翠いるの、知ってた?」「池のそばに綺麗な鳥がいるから、写真とってみましたよ」「あ、わたしも見ました」「今日もいてね、結構近くで挨拶できましたよ」と、君と逢えた喜びをわたしにも報告してくれた。君は魚をとる習性を持って生まれ、池の魚を食べなければここでは生きられないけれど、わたしが勤めるずっと前、昔からここにいてくれた。君と逢えた喜びは、池の端に棲むブルーの鳥の存在は、わたしが論文に書くことも出来ないし、職場の管理側の偉い人たちを説得する根拠とはならないけれど、目を留める人たちの心の琴線に、優しく触れるものだったんだ。
君がいなくなってから、職場でのわたしのこころには、また一つ氷の塊のようなものが増えたけれど、でも君はまた「少しでもできることからする」勇気をくれたような気がする。
張り巡らされたロープに、ゆらゆら揺れながらも頑張ってつかまり、ロープの間を引っかからずに潜り抜けて、水に潜って魚を探した。
そうやって、頑張って、生きていく。
また逢えたね。

(カワセミ K氏撮影)