hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

草は刈らないでおきますがよろしくお願いします。

天地始粛(てんちはじめてさむし)の候、大気に秋のエネルギーが満ちています。

草木の青葉はまだ眩しいのに、どこか(最後の夏の陽光を取り込む)急ぎ足の足音が聴こえるようですね。

もう間もなく九月 -- bird sanctuary では秋に大切なお客様が何組かいらっしゃるので、少しずつその準備が始まっています。大勢をお迎えさせていただいての行事もあります。

一週間くらい前から、色々な方々との調整に入っていますが、普段から篤いご支援・ご助力を頂いている先輩方から心配されてもいます。きちんとしたお迎えをするにあたって、1年半前に引っ越したというのに未だ部屋も片付けきれず、おまけに一見(← 一見、じゃなくて、しっかり見ても?)草ぼうぼうの荒れ放題 -- もうちょっと何とかしたら? みんなで一気にやってしまおうか?! -- ありがたいご心配もひしひしと感じられるようになってきました。

それで … ですね、室内の片付けは今追い上げの段階ですが、外仕事(草刈り、剪定、刈った草や枯れた竹の片付け、等)に関して、昨日の先輩との電話で、きっぱりとした想いを聴いていただいてる自分がいて -- その先輩は、うんうんと気持ちよく賛成してくださったのですが、自分で自分の声を聴きながら、bird sanctuary の方針について、改めて確認できた自分がいました。


あのね … 済みませんが、草をきれいさっぱり刈ってしまう、ということはしません。


確かに、ご近所の雑草ひとつ生やさないお庭に比べ、あまりにもぼーぼーに色んな草が生えています。やっぱり見栄えが悪いかな、それに、草が多いと虫たちも多いので、少なくともお客様が蚊に刺されないようにしなければ -- と考えていましたが、通路や必要な個所は綺麗にするにしろ、やっぱりある程度草のある場所を残しておこうと想います。

夏の間は、数日間でジャングルのようになってしまい、暑いのと蚊柱の中での作業なので、必要最低限だけ草刈りをしていました。大切に育てたい苗木や野草・野菜の苗など、全く陽が当たらなくなってしまったり、つる草に撒きつかれて半死の状態になってしまったりしていたからです。放っておくとどこまでも蔓延ってしまう一部の種類の草や竹も、重点的にゴメンナサイをしました。基本的に、草刈りは、どうしても生き延びてほしい植物を救い出すためにしていました。(あとは、ご近所の目を気にする部分ですが … なんか大丈夫そうなので、結構放ってしまったかも … 汗)。


これから秋、冬に向かい、表通りに面している部分の草は刈ろうと想います。

草が枯れて、乾燥してくると、たとえばたばこの投げ捨てなどがあった場合、火災の危険があるからです。


ですが … 人の行き来のない敷地内の草は、今年は残しておきたいのです。

昨年、草刈りができないまま枯れていった草の穂、草の実が冬の寒さの厳しい時期に、アオジ、カワラヒワ、スズメなどの小鳥たちの大切な食糧源になっているのを目撃しました。あ、そんな枯草に、実がなっていたの?と驚くような枯草にも、鳥たちが鈴なりにとまり、何かを懸命に探したり啄んだりしていました。

そう遠くない昔、もっとあちこちに何ということはない野原、草原が残っていたころ、冬になると彼らは、そうした空き地の枯草の実を頼りに生きていたのだろうと想います。(今でも、都会でコンクリの隙間に生えた草の穂に、何だか止まっていることがありますね。)


この冬も、寒さの厳しい時期になったら、雑穀やヒマワリの種、果物など、野鳥たちのレストランを開業する予定です。

でも、本当は、なるべく自然のまま、安全であればその土地の実りそのものを、彼らに食べてもらいたいのです。

まだ、どのような実を、誰が、いつ頃、頼りにするのか分かっていませんから、

 枯れた向日葵(キク科)の花、
 エノコログサ(イネ科)、
 カヤツリグサ(カヤツリグサ科)、
 トウバナ(シソ科)、
 メヒシバ(イネ科)、
 ホウキギク(キク科)、

 などなど、それに

 ヨウシュヤマゴボウ(ヤマゴボウ科)
 (= 在来種ではなく、帰化植物
 なのですが、ヒヨドリ等の大好物なので、
 敢えて何本か残して、大木状態となっています。)

まずは実験的に残して、観察してみようと想います。

それに、先の冬、草ぼうぼうの茂みを好むベニマシコが訪れてくれましたし、キジやコジュケイもそうした茂みを好むので、「草を刈ってすっきり」はできませんね。


weeds
 (今、草の中はバッタやら、カマキリやら、羽化したてのガやら、力尽き果てたセミやら、でいっぱいです。)




(人様の観賞用)庭園ではなく、bird sanctuary なので …

どうか皆様、ご理解をよろしくお願いいたします。

(優しい先輩方、部屋は -- 救護中の鳥さんが徘徊するので、落し物除けの新聞紙等見苦しいのですが -- なるたけ片づけますが、)草は、残しておきます。あしからず、よろしくお願いいたします。








 
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蓮三夜  第三夜

(第三夜の下書きを書いたまま -- なかなか納得がゆかなくて、推敲して行きつ戻りつ -- 先週後半から東京に出ていました。いつものように東京・神奈川で yoga 、そして素晴らしいレッスン・修練に参加させていただいたのですが、その間、大切な方々との短い交流の中で、第二夜からUPできないで随分とご心配をおかけしてしまっていることに気づきました(>_<)

済みません!!


何だかとっても納得がゆかないのですが、嘘でもファンタジー仕立てでもなく蓮花の真髄のところから生まれるものは今はこれが限界です。最終夜に納得がゆかずとも、それはそれでそれがありのままの姿であり、また、処暑過ぎて bird sanctuary に戻ってみると、季節の色が移りエネルギーがシフトしているので、次に進むために恥を忍んでupします。

考えの足りない部分についてご教示頂ければ幸いです。)




whitelotus


-- きっとこれで終わりにはならない。


そう感じながら、夏を過ごしました。ここのところ、三つがセットになっていることや、三度という回数が節目になっていることが多く、yoga の蓮の動きも≪生誕≫≪開花≫≪還元≫と三つが区切りなので、なんとなくそう感じていたのかもしれません。あとひとたび、きっと蓮が物語をかたってくれる夜が訪れると。


でも、今夏に限って、どこかの大池や水生植物園等に「蓮を見に行こう!」というお誘いがありません。自分一人で出かけるには、仕事が詰まりすぎていて、機会がないままです。yoga や瞑想のときは、基本的に無心をこころがけなきゃ、なので、期待するのもなあ … と想いながら過ごしました。bird sanctuary でも、本当は蓮を育てる予定だったのですが、ジャングル状態の竹林と草木の管理に追われて、それどころではなくなりました。



そして、この物語で結末を迎えて良いのか、まだ分からないのですが …

八月に入り、つくばの会で yoga 、瞑想をしたときのことでした。

座りながら、再び自分が蓮の花となって咲いているのを感じていました。

今度は、瑞々しく、清浄な、うっとりするほど端正な姿の、白蓮でした。辺りは微かに芳しい香りがし、小さな白銀の鈴が幾千も鳴らされているような音が遠く響いています。

… でも、辺りは相変わらず、暗いのです。

あの時と同じ -- 天の光の差さないその場所の下には、どうしようもなく暗い大地がありました。干からびて、命の息絶えた、真っ暗な大地でした。


その大地のすぐ上に、白く柔らかい靄が広大な絨毯のように広がり、蓮花はその靄にくるまれて静かに開いていたのでした。

完璧なまでの美しさ、清浄さ、端麗さ … 白い靄が蓮花を護るように包んでくれています。そして、静かに、永遠のように、そこで花開いているのでした。



すぐ下の荒廃した大地は、遥か彼方まで続いているようです。その上に並行して、白い靄も遥か彼方まで伸びてゆきます。暗い闇とほのかに白銀色に煙るような光、黒い帯と白い帯 -- 地球を一周するのか、遠い宇宙の果てまでなのか、とにかくずっと先までその二つの層が続いていました。


蓮の花として静かに座ったまま、瞑想が終わりました。


・・・・・・・・


-- えっ? それだけ … ??


こころのどこかで、やっぱり別の物語を期待していたのかもしれません。夢の途中で目覚めてしまい、良い夢にしようと再び毛布をかぶってしまうときのように … 。例えば、再生の物語 …。例えば、わたしたちの意識を繋ぐ集合意識的な何ものかが、突然変異を起こして、あるいは、奇跡のヒロインが登場して -- ここまでの悲嘆が一気にリバースしていくような物語 …。蓮の花なので、蓮の花だからこそ、どこか奇跡の物語を創造したくなっていたのかもしれません。


なぜ、白蓮は、あんなところに開いていたのでしょう -- ? 腑に落ちません。
一体何をしていたのでしょう? 何を語ってくれていたのでしょうか … ??


正直、第三夜目というのに、うやむやですよね? がっかりしますよね? ゴメンナサイ、ワタシモ、ガックリデス(←  ○| ̄|_  !?!) 






… 「蓮の花は何があろうとも蓮の花」、「瞑想で浮かんだイメージを追うな」、「得たvisionを後から頭で解釈しても真実とは程遠い」 … なんですけれども … それは確かに、そうなんですけれども … 。


どうしても、人間は見かけた出来事の解釈や、浮かんだイメージの象徴を探りたくなってしまうもので、特にわたしは“頭でっかち”なので、以降では悔し紛れに、その後で解釈したことを書いてみようと思います。ブログでは久し振りに頭脳系で書くので、多分「クダラナイ(ヤヤコシイ)」と思います。きっと、ここまでで皆様が直観で感じ取られた答の方が、適切だと思います。



解釈は、六通り考えてみます。

(これは、以前「知識」に関する大学の授業を担当していて、それは学生の頃「『情報』とは何か」にとても興味があって、それを極めると、情報を体系化したものとしての「知識」について探りたくなって、そして知識が構築される過程について学位論文を書いた挙句、授業を担当することになった、といういきさつからでした。ところが、授業を担当する頃になると、「情報」を得るだけでは人が幸せにならないのと同じように、「知識」を獲得するだけでは人類は良い方向には向かえないのに気付いて、その先にあるものを探って -- 行きついた先が、というか、行きついていないのですが -- 学問上は(授業では)「価値体系」とか「現実観」とか「世界観」あたりが関わっていそう、と言いつつ -- 「ほんとはこれかもしれないねえ~」とお茶を濁しながら(学問的な「定義」が難しいし、授業でまっとうに扱うと「アヤシゲ」と言われそうな環境だったので)考えていたのが、「智慧」と「(原初的な)コミュニケーション」でした。その「智慧」を探っていて、読んだ文献として)

『知恵の三つ編み』(ポーラ・アンダーウッド 星川淳訳 徳間書店)の中で、北米先住民イロコイ族が伝承してきた智慧が、白人に分かりやすく伝えられています。

生命/人生(=いのち)を扱うとき、あまりにも多くの個別現象があらゆる瞬間に作用と相互作用を行っています。なので、何か一つの物事が、それだけで何か別の物事を引き起こすことなど到底ありえない、と彼らは考えます。

 「形をとったすべての現象について、
 その現象をきちんと説明できる説明を
 少なくとも六通り考えだすこと。説明は
 六〇通りあるかもしれないが、もし
 六通りでも考え出すことができれば、
 宇宙の複雑さと知覚の多様性に気がつく
 だろう。そうすれば、最初に思いついた
 もっともらしい説明を“真理”に祭り
 上げて、それにしがみつくことを妨げる
 にちがいない」    (p.221)

蓮花の開いた世界は、いのちの現象と言えるか分かりませんが、これに倣ってみます。


≪解釈その1≫

この瞑想の後、すぐ感じたのが、「これって、(芥川龍之介氏の『蜘蛛の糸』のように)天界と地界(地獄?)のイメージと思っちゃまずいよね」でした。解釈としてまずい、というよりは、「わたしは蓮の花。大地(現実/世界)がどんなに荒廃しようとも、ここで美しく咲く」という感じは、わたし(=蓮花)にはぴったりと来ない、ということでした。“現実厳しすぎるから、とりあえず今日はワイン飲んで映画見て寝ちゃえ~!”という逃避ならまだしも(わたし((=蓮花でないわたし??))はしますが)、「ここで美しく咲く」蓮花が、「どんなに荒廃しようとも、関係なく」とか「関係なく、わたしは美しいから」というのは、何か非常に違う、という気がしました。
 なので、天界/地界 version (現実逃避 version ?)は考えましたが、却下です。


≪解釈その2≫
 
次に思いついたのが、これは、闇のなか死に絶えている大地(=地球の物理的状況)とそれを包む白いオーラ(=地球の放つエネルギー層)の図なのではないか、ということでした。つまり、モノ(物理的なモノ)と、そのエネルギーを分け、モノが変化する際、現実に物理的に変化する前にエネルギー的な変化が現れる、ということかしらと思いました(実際に、多くの方が多様な領域でそういう考え方を表明されるのを見かけ、またそういう体験が語られています。例えば、病気の治癒など。)この光景は、物理的には生命の荒廃、死(=暗い闇の、黒い帯)という状況にありながら、地球は次の再生に向かっている段階のエネルギー(蓮の座る靄の、白い帯)に包まれている、というものかもしれません。
 しかし、これもまあ、潜在的な期待から解釈していることでしょう。
 実際、黒い帯と白い帯は、モノとそのエネルギー、という関係に見えませんでしたし、例えもしそうであっても、「ヒトが死滅に追いやった暗い大地が、白い靄に包まれ浄化されてゆく」的発想は、なんとなく「世界のすべてはいずれ光によって浄化され上昇するのだ」的考え方に近くて、それも … 違うかしら、という気がしました。


≪解釈その3≫

では、どう考えればいいのでしょう?
 この大地(黒)と靄(白)の関係性に鍵があるかもしれません。これはやっぱり、闇と光の象徴かしら …? とすると、≪2≫で考えていたようにどちらかがどちらかの付属物でなくて、二つがくっきりと分かれて対立している、黒と白、闇と光、荒廃と聖域、など、何かの対称的世界だったのでしょうか。
 蓮花にとって、今開いている世界が、二つのものをはっきりと分けて捉える、二項対立の世界だとすると -- 大地と靄が両極で、ずっと固定されていて、その対立がずっと続く世界だということになります。
 確かに蓮花(わたし)は、以前は、この世には美しい世界と醜い世界とがある、醜い世界に足をとられて被害者になってしまうのではなく、美しい世界の輝きを増す仕事がしたい、と想っていました。でも、この干からびて死んでいる暗い大地と、蓮花を包む白い靄は、対極ではなさそうです。それに、二項対立は西洋の代表的な思想の根底にありますが、個人的にあまり好きでなく、大地と対立する場所に蓮花が開くということは -- ありえません。やはりこれも、違うような気がします。


≪解釈その4≫

一方で、もし二項対立でなかったとしても、ここで白黒が非対称(=どちらか一極だけが圧倒的に強い)ではなく、対称的だというのは、まだ良いのかもしれません。何が圧倒的力を持つ非対称の世界よりは、二つのものが相補する世界の方が、まだ安心できる気がします。暗く死んだ大地だけでも、蓮の開く美しい白い靄だけでもなく、どちらも存在する世界の方がバランスが取れます。
 ただ、、、白い帯と黒い帯がどこまでもまじわらない平行線なのが、気になります。どちらからの働き掛けもないのでしょうか。並行線が交わったり、反転したり、ミックスしたりという変化がなく、大地は大地のまま、靄の上は靄の上のまま護られていて、蓮花は … 幸せなのでしょうか。白い靄が、大地の‘死’と関わり合わない、ということは、‘生命’とも関わりがない、ということだと想います。そのような花であるとは感じられないので、この version も違います。


≪解釈その5≫

… だいぶ、行き詰ってきました。

六通り解釈する、というのは難しいです。

暗い大地と白い靄を対象として考えるのはもう駄目そうなので、いっそのこと視点を転じてみたらどうでしょうか。
 大地と靄を観てきたのは誰ですか? 蓮の花でしょうか? その蓮の花が開く姿を観ているのは、誰でしょう? どこかに、すべてをじっと見続ける‘目’があるのではないでしょうか? 死んだ大地も、そこに広がる靄も、蓮の花が開花する姿も、ただ、観ている目があるということが、根本原理なのではないでしょうか … 

 観えていたものの答がそこに在る、何となく、そういう解釈も、ありそうと言えばありそうです。
 ただ、それはもうきっと“解脱の paradigm ”ですよね。そして、今は‘蓮の花が開く’ということの本質は、解脱の中にあるのではなく、“生命の paradigm ”の中にあると信じていたいと想います(≪その4≫あたりで、はっきりしてきました。)それに、‘目’が原理だとしても、なぜ今、その目がこの景色を見せられているか、の答はまだ出ていません。


≪その6≫

これで6通り目ですが、もうわたしはギブアップです。6通りの解釈の最後は、あなたの解釈です。
黒い帯と白い帯、荒廃した暗い大地の上の白い靄の中で開く蓮の花を、あなたはどう捉えられますか? 
どのように解釈すると、最もすっきりされますか?

最後の解釈を、開放系(まるなげ風?)にしておきます。



・・・・・・・

 (あらら、解釈を書く、と言いながら、6の前まで、書いた先から否定しちゃっていました。)



苦し紛れに書いてきましたが、途中、ひとつだけ閃いたことがありました。


今の、わたしにとっての「希望」の姿です。


3.11以前、わたしにとっての「希望」は、bird sanctuary 創立や小鳥とのコミュニケーションでした。たとえ、地球の中では砂粒ほどにもならない、1400坪ほどの土地でも、そこからのエネルギー、そこから意識が変わって行けば(波紋のように広がってゆければ、また、他の様々な動き・エネルギーと共鳴できれば)世界は変わる -- と信じられました。自然と人とが調和できる場所が少しずつでも広がっていけば、いつか地球という星自体が聖地となると想っていました。人の意識が変わるきっかけさえ生まれれば、奇跡が起こるということが、わたしの希望でした。小鳥と人がこころを通わせることができ、小さな小鳥が人を信頼するような世界が生まれれば、人の意識は大きく変わる、そしてそのことは世界が変わる大きな鍵となりえる --。そう信じて、進む!!

そこ頃までは、他の方々に(このブログでも)「希望はあります」と言えるわたしでした。

3.11後、そう言えなくなりました。「希望を見つける」ために、退職して原発事故地から100~110KMほどの bird sanctuary に棲み、それ以前に築こうとしてきたことの意味を再考し、「汚染」について勉強し、直観したことも含めあれこれをやってみました(それ以前は、こころないハンターさんや無意味な開発に対抗する手立てが頭にありましたが、汚染に関しては全く不勉強でした)。そして、失速気味だった小鳥とのコミュニケーションの研究の再開に七転び八起きして -- 様々な方々から教わり、色んな考えやその奥にある意識を感じ、「(新たな)希望はあります」とはまだ言えません。

どうすればよいか、まだ分かりません。



今は、以前のように「希望はある」とは言えません。
新しい形の希望についても、まだ見つけられていません。

一方、では「もう絶望するしかない」とも言えません。
多分、わたしが生きている限り、わたしはそう言わないでしょう。



いっこうに交わってくれない、相互作用してくれない、白い帯と黒い帯 -- 。
ごちゃごちゃ解釈してみても、簡単に答の出ない、白蓮の咲く光景 -- 。


もしかすると、今、ここで、希望はあるのかもしれないし、ないのかもしれない、ということなのかもしれません。あるのかないのか、そのどちらかを‘信じる’というのならまだしも、‘言い切ってしまう’ことは、この時代、もはや傲慢であるのではないかと感じられてしまいます。



なぜ、希望にこだわるかと言うと -- 希望があると信じられれば、向かう道が観え、少しずつでも努力して進むことができ、エネルギーや勇気が沸いてくる、いろんな共鳴や共振も生まれるし、それらが全て希望の方向の糧となっていくからだと想います。それは、そうなのです。

それでは、なぜ絶望の淵を観せられるのかというと -- 。

「希望」の鍵は、人々の意識の中にあります。これまでも、確信してきましたし、今も、そうです。

環境・自然・命を大切にしようとする人々は、これまでも、今も、どんな場であろうとも少数でも存在していました。そして、そういう方々の意識が繋がり、波紋のように広がり、深まり、現実を変えていくことが可能だと信じていました。ですが今、環境・自然・命を大切にしようという方々が、(数的には増えていると思いますが)方向や価値観、焦点や拠り所とする立場・考え方・人のネットワークを分散させられ、互いに衝突したり失速させられる方向に陥ってしまっています。しかも、その状況に打ち勝てないようなメカニズムがますます膠着しています。社会を変えるのか自分から変えるのか、まず何から大切にするか・守るか、何を信頼するのか、等、混沌のまま価値や言説が分裂してしまっています。何を見て行動するのか、どの種の「周囲の人」にどの程度同調するのか、どの社会活動にどの程度参加するのか、どの立場がいいのか悪いのか、複雑な相関関係を持つ環境のどの部分に向いた考えを採択するのか、すべてを撹拌し誘導的な情報源のどれにどの程度依拠するのか、違う立場の人を支えるのか攻撃するのか憎むのか無視するのか、自分自身でどれだけ自立する覚悟があるのか、等も以前よりも格段にバラバラとなってしまいました。
 要するに、命や自然や環境を大切にしようとする方々が(それでも未だ数は少数・微力なのに)、対立したり憎みあったり相互に受け入れなくなってしまう度合いが以前より強くなってしまいました。大切だと感ずるものが一致できたかもしれない少人数が、混乱の上、多く相殺し合ってしまうように見受けます。

(この種の対立は、以前も、例えば自然保護団体と動物愛護団体、‘自然を管理する(=現状の科学志向の)’型の保護団体と‘自然を敬う(ヒューマニズム志向の)’型の保護団体、温暖化防止なのか反核なのか、等で見かけました。また、‘命’や‘自然’をどう捉えるのか、自然観や世界観の相違によって、これらを護ろうとする立場同志が足を引っ張り合うこともありました。)

より多くの人が、環境や自然や命こそが最も大切、と気づき、傍観するだけでなく急務として行動する必要がある、と深く理解した矢先、この混乱が意図的に起こされたと想います。簡単な誤解・立場の違いではなく、価値観・世界観・生命観・互いの大切にするものや愛するものを護るために依拠するものやそのソースの違いが巻き込まれているために、整理できる状況にありません。しかも論理の違いでなく、感情が関わり生き方が丸ごと違うことになったため、修復不能です。


混乱と対立から、わたしたちの不安・疲弊・消耗も大きく、互いのコミュニケーションが閉鎖系になることも進んでいます。挫折感を感じたときに、簡単に逃げ込める娯楽や言い逃れの場所は実に魅力的になっています(身を以て感じます … 汗)。


圧倒的な闇と言える、混迷の時代に突入してしまいました。



でも、「絶望」しかないのかと言うと --

わたしは、(いつかのブログで書いた、最後の切り札を出しますね^^)


 -- でも、「愛はある!」 --


愛は消えてない、ことを想い出すのです。

環境や自然や命を護りたい、という想いの中に、各々の対象や範囲や質は違いこそすれ、愛は揺るぎなくあります。


愛は、ありますよね。
消えていませんよね。



ここのところの混乱の中、少なくとも周囲を見渡す限り、身近な命に対して愛をしっかりと注いでいらっしゃる方ほど、少なくとも生きる視点を失われてはいない気がします。


混乱のことを書いたときに、じゃあどうして整理しないのか、整理して新たな秩序を生み出して行動すればいいじゃないか、と言われるかもしれないと思ったのですが、そのようにして解決できる混乱・混迷ではないような気がするのです。

(先に「情報」の研究をしてきたり「知識」についての授業を担当した過去を書きましたが)どういう考え方が合理的 / 効果的だとか、どのような立場にはどんなメリット・デメリットがあるということを整理しても、答は出ないのではないでしょうか。この閉塞を打ち破るためには、新たな「情報」を得たり「知識」を身に付けたり、誰かの論理力や統率力を借りるのではなく、もっと新しい知性を身に付ける必要性を想像してみるのです。


 真に大切なことを見抜く力

 自分の属する集団や自分の立場・世界観を越えて
 別の集団や立場や世界の在り方を想像すること
 全然違う「今」を生きる人や生きものたちの
 身になって想像する力

 そして、全然違うその命に共感できること
 それが難しくても、今自分が共感できる他者の
 範囲を少しでも広げてみる力

 周囲の何かからの怖れから逃れ出て
 真に自分の足で立つこと
 自分自身を知る力
 感じる力、考える力

 命を感じる力
 生きていることをリアルに感じる力
 自他の生の有限性や死を受けとめる力


 諦めないで逃げないで
 自分のために自分で前に進む力

 智慧と慈悲

 など??


まとめていいのか、どう呼んでいいのか、整理のつかないままですが、立ち止まるのでも絶望するのでもなく、今はこうしたことに関わる知性を磨いてゆこうと想います。うまく書けませんが、ヒトの命としてのからだが知っているはずの‘身体知’や、感じつつ必要な行動をしていくための神経網としての脳にある自力で感じ/考える力や、原初からわたしたちの意識に眠っている、多様な他者や自然環境と繋がったり共振したりする力などに、少し関わっているかなと思います。絶望的な状況からの脱出が可能かどうかは分かりませんが、ともかくも、今後こうした知性を愛と共に携えてゆく必要を感じます。

(もしかすると、わたしが感じているような絶望は、もう過去にたくさんの先輩方が乗り越えたものかもしれない -- 知性も愛もなければ乗り越えられなかっただろう -- そして乗り越えた後は、野辺に咲く小さな花を見つけた少女のように、初めて命<花>を護りたいと感じたときそのままに、感じ行動してゆきたいです。)



きっと、まだ、世界の行く末は、オープンです。


身近なレベルの小さな希望(愛)から始めて、新たな知性を磨き、小さなレベルだけど大きなレベルと繋がっていくような希望を、みつけましょうか。




第三夜目の瞑想の後で、メンバーの方々とお茶を頂きました。第二夜に書いた瞑想でご心配をおかけしてしまったメンバーの方(=人間業と思えない位、場所や他者から感じ取る感覚が鋭敏な方)が、一言、感想をおっしゃっていました。

 「今度は、『大丈夫』、という感じだった。」

 「大丈夫? 何が大丈夫だったの?」

 「いや -- わからない --。
 でもとにかく、

 ダイジョウブ! 

 ミンナ、ダイジョウブ!!
 (両手を床に広げるしぐさ)

 という感じだった。」



-- これが多分、白い靄の上に咲く白蓮の花です。
そして暗く荒廃した大地の未来です。


白い靄の上で健やかに開いてみよう。


白い帯と黒い帯の平行線が続く宇宙の果てには、きっと素晴らしいことが待っているに違いありません。














  















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蓮三夜  第二夜

lotus2



七月の、つくばでの練習会でのことでした。


いま、ここに開く蓮の花が、いったいどんな花なのか --。
どのような世界に花開こうとしているのか --。


振り返ってみると、予兆のようなことは幾つもあったのですが、その夜その場では全く予測していませんでした。



いつもの仲間たちと yoga の練習が始まり、からだをほぐしてから、確か鋤のポーズ(Halasana)や魚のポーズ(Matsyasana)を行じ、最後にやすらぎのポーズ(Savasana)に入りました。そして -- いつものように -- 十分にからだ・こころが安らぎ、鎮まってから、ゆったり呼吸し、ゆっくりと各々の座法になって瞑想に向かいます。

夜の八時過ぎ。やすらぎのポーズのとき目を保護するために一部灯りを消したので、道場は漆黒の闇にすっぽりと包まれていました。

この日は、いつもより長く瞑想をしようということになっていました。つくばの会の仲間たちは皆、身体技法のプロ -- 呼吸や意識の使い方も遥か熟練している先生方なので、互いに自由に、各々自分のやり方で瞑想に向かいます。


わたしは、蓮華座となり、大地深くに根を下ろして、頭頂を天高いところに繋いで、天地の軸ができたら、自分は中心に留まり、あとはお任せすることにしました。色々な課題やテーマに沿って座ることもありますが、この夜はただ静かに受けとめていたい気がしました。


ただ …


いつもと比べて …


辺りがあまりにも暗いのです。


深く沈んだ闇の底、いえ、底というよりは闇の中の闇 -- 捉えどころのない濃い闇の只中!

座る床もなければ、いざというとき戻って来られるための手綱もなく、何一つ灯りもない -- そんな闇の真ん中にいます。


(因みに、瞑想をする時はいつでも必ず天地の軸だけは作るのですが、そうすると同時に天の光、大地の温かさ・エネルギーを感じます。多くの場合、天から白か透明な光が下りてきて、時にその光に包まれたり辺りが眩しいほどに感じたりします。光から清らかさ、聖性、宇宙のプラーナといった‘質’を感じることもあります。が、それを追ってしまうとイメージに捉われたり、思い込みに走ってしまい、‘空’から遠ざかってしまうので、なるべく、感覚でとらえるだけにとどめます。ただ、瞑想のために座ると、いつもは目を閉じていても、「明るい」のです。)


真っ暗な闇の只中、もう、どこが大地でどっちが天かも分からない -- 無意識のうちに、手の印を組み替えて、蓮の花の yoga を始めていました。わたしは蓮の花、ここがどこであろうと、今、泥の中で目覚めて水中をくぐり、光に向かって開く -- 両手を合わせ、伸ばして、そして光を受ける … 


-- ところが、どうでしょう。

開いた両腕の花弁が、開く先から、先から、焼き尽くされ、ただれてゆくのです。

いえ、恐れずに、もう一度。そして、もう一度。ただ、蓮の花になって、もっと純粋に、もっと瑞々しく …。それでも、思い切って開く花弁の、広げた先端が見えない暗い火に炙られ、花弁の先から茶色く褪せ、黒く焦げて、萎れてゆきます。


-- これは、何?!?


蓮の生命は、そのような世界の中で花開こうとしていたのでした。

気が付くと、とめどなく涙を流していました。


-- もしかすると、‘魔がさして’いる? 

ほんの少し、薄目を開けました。この暗さ、辺りに何か‘良くない気配’があるのかもしれません。いえ、それよりも、道場に入るときは、いつも気を付けて穢れを払い、浄めてから入るし、特に yoga や瞑想をリードするときはことさらそうなんだけれど、それでも、わたしの中に、わたし自身がまだ気づいていない、濃い闇か、毒か、禍々しい何か(←!)が入り込んでいる? … そうは … 感じられないし、今宵一緒に練習してくださった方々の反応の中にも、さっきも今も何もそうしたことは見当たらなかったけれど … 

普通なら、ここで瞑想をやめていたと想います。自宅で一人でならまだしも、どなたかとご一緒するときには、間違っても他の方に悪い影響を及ぼしてはいけないからです。(そのような失敗は過去にたくさん見てきましたし、自分自身でも失敗してきました。)皆で瞑想をすると、一人で行じるときとは段違いに、良い時は真に深い体験をします。が、逆もまた真で、何を誘発するかしれないし、何かを相乗させてしまうかもしれません。とにかく、これは良くないな、と感じたら、直観に従ってやめた方がいいのです。-- ところが、わたしの一瞬の直観ときたら --


-- 今日は長い瞑想をすることに決まっていて、しかもこの(熟練)メンバー! このメンバーは大丈夫!! 互いに自己責任のルールで、どんなことでも受け入れ、対応できる。何が起こっても、信頼できる。今の蓮の花は、きっと意味のあることでしょう。もしものことがあっても、いいや甘えてしまえ! ええい、この蓮の花の行く末、最後まで見届けてやろうじゃないの!


再び、目を閉じました。



天も、地もない、闇の中です。

ただれた花弁(手)はどうなったのだろう、と腕を動かすと、掌で救い上げたのは水でした。

-- ああ、水はある!

再び、蓮の花の動きに入り、蓮の茎が水を登っていく動きをします。闇の中です。水を登り、光を求め、光を …

-- ちょっ … 水も … 変!

錆びたような匂いがツーンとします。なにこれ!! 赤茶色の水?! なにこれ!! 蓮の生命が浸されている水は … なにこの色、この感じ! ここはどこ?!



-- 水? 水の中じゃないの? いえ、水、ス・イ・ブ・ン、なんだけど、でも、まさか、でも、これは、血? 血が混ざっている、この匂い?


世界の、三つ以上の出来事が、同時に、爆撃のようにフラッシュしました。



*******
光を求めて伸びているのに、わたしは天に向かえない。

その先に、きっと天空の光があると信じてきたのに、
わたしは何かに覆われたまま … 

何か、厚い、窒息しそうなもの。

そして、この池には、沢山の死
血の匂い、死の匂い、


覆っているのはネットで、
さっきまで空を飛んでいた、
水を求めてここにやってきた、
沢山の鳥たちが、無意味に
死んで、躯(むくろ)になっている。

まさか、ここは -- ??  
ここにだけは、来たくなかったのに -- ! 

(茨城県の、野鳥の食害を食い止める、
蓮田の防鳥ネットの現状です。

 参考1

 参考2


蓮根畑に被害を及ぼす野鳥の種と数は、限られ
ていますが、2004年から導入された防鳥ネットで、
無関係の野鳥たちが多数、命を落としています。

このニュースを日本野鳥の会茨城支部のニューズレターで
知った直後、いたたまれなくて支部に連絡させていただいて、
野鳥たちと共存する「野鳥や自然に優しい蓮根」を
販売して頂くという解決策はとれないだろうか、みんなで
それをアピールして行けないだろうか、と
相談させていただきました。

支部の方たちは、多大な尽力で働きかけを行って
くださり、この案やら、野鳥被害の少ないネットやら --
他県では導入 -- の呼びかけ、交渉を続けてくださって
いますが、未だ「ソマリアの虐殺に等しい」蓮田が
消えないそうです。

2004年以来、わたしは‘蓮根絶ち’をしています。

煮含めたり、他のお野菜や白滝と酢炒めしたり、
きんぴらにしたり、すりおろして滋養たっぷりの一皿、、、
といつかまた、楽しめる日を待っています。)


光が届かなくても、
水が濁っていても、

わたしは蓮花 -- 咲いてゆく


でも、こんなところで、
こんなところで、
開いて -- ゆくの? 


聖なる花
清浄な花

そんな …

鳥たちを、空に還して!
ほんの、ほんの少しでいいから
安全な、水辺を還してあげて!

わたしは、咲きたくない。

そんな … 残酷すぎるわ!!




*******
空の、爆撃のフラッシュ
何かが、光ることもなく
燃え落ちてくる

そして、
ああ、やっと見つけた
大地も、この匂いで分かる

鳥たちだけじゃない、
草も、木も、虫たちも、
動物たちも、同じなのでしょう?
人の死に巻き込まれて
人の殺し合いに巻き込まれて
軍服のヒトも
ボロを着たヒトも
倒れて折り重なる下に
地球の、ありとあらゆる命が
巻き込まれて、血の水に流されてゆく

ヒトの
憎しみや、残虐性は
何のために、いつ、
備えられたものなの?

それは、お互いだけでなく、
他の生命たちにまで、
向けられるように仕組まれているの?


蓮花も焼き尽くされ、
花弁はただれてその水に溶けてゆく

それでも、花は、
ボロボロ哭いている
この涙は、とめどない
この水が少しでも流れてゆくように
この水がいつか透明になってくれるように

いつか
大河となって、
命を優しく包み込めるように




*******
-- あ

-- 赤い水は、溢れるのを止めたの?


ただれて枯れた花弁(手)で、土を触った。


冷たく固い、干からびた大地
ところどころひび割れて、
ごつごつしたり、
大きな穴が空けられている

表面も、穴の奥も、
何の気配もしない

何かに噛まれたみたいに
触れると、ビリッとする土
電場や磁場は時に強く感じるけれど、
それよりもケミカルな成分の
不協和音がすごい …

1950年辺りからヒトという種族が
掘り起こし、調合し、燃やし、
土に染み込ませ、
海に流し、
化学変化させ、爆発させ、
消費させ、自家中毒させ、
大量に廃棄したり、敵にぶつけたり、
隠したり、埋めたり、
放置したり、知らぬふりをしたりしてきた
その後の土だね?

ここ50年ばかり、その暴走と、
暴走を食い止める手立てが
見つからない。

(後始末はみんな、
大地と海がしてくれるとでも
想う、ふりを?してきた?)



わたしの手(花弁)、
この感じをよく知っている。



微生物さえ、棲めなくなった土

生命体の消滅した、地球

死んだ星



幾度その夢、
その vision を
観て、聴いて、感じてきたことだろう。



折々の祈り、
悲痛や絶望の中での浄化、癒し
yoga や舞いのたびに
繰り返してきた動作


ただ一つの動作 --


いつもこの大地の光景が
出てきた。

そして、高く高く天空に伸びて、
両手で、宇宙の水、天の光をいっぱいに集め、
大地に跪いて、手を伸ばし広げてゆく


ただそれだけの単純な動作と variation
何故この動作ばかりしてしまうのだろうと
訝しむほどに、繰り返し
繰り返し、行ってきた。



死滅した土が少しでも癒えるように
いつか大地が潤いを取り戻すように
いつか地球が息を吹き返すように

もしも宇宙のどこかから
生命の種が飛んできたなら
ここに息づくことができるように

繰り返し、繰り返し …

あらゆるマイナスの
ベクトルが転じるきっかけが
何かの拍子に生まれるように

いつか贖いの形をとることが
できるように
遠いいつか、赦される日が
訪れるように



馴染みの、あの動作
だが、
焼きただれた花弁、
焦げて、萎れて、
もう、生きていない蓮花に
何が、
できるの?


この闇の中、
すでに精(エッセンス)として残っているだけの
蓮の花も間もなく消え去るだろう。


それとも、
まだ、
それまでの間に
何かできるの?





*******
わたし(蓮花)はさんざん哭いていて
瞑想中の道場の、他の仲間のお一人が、
それを気にされているのに、
気付いていました。
-- 意識されているのか、
無意識のうちになのか …


-- ああ、情けない
このまま瞑想を終わらせてなるものか


このまま、瞑想を終わりにするわけには
いきません。


初めての、
天地の軸を繋ぐことができないままの、
長い瞑想

あたりは、
濃く深い闇に取り囲まれています。


天の光も届かず
大地のエネルギーも死に絶えた
暗い闇の真空状態

取り巻く世界の
濃く深い闇の只中で、
それを瞳に映しながら

わたし(蓮花)は、
ただれ、焦げて、
萎れて、死を迎え、
まだ微かに、僅かに
精として残存して
座っているのです。


闇の真空状態の中、
天の光を求めても、
天の光に届こうとしても、
どの方向に手を伸ばせばいいのか、
手を伸ばしても、天の光が
あるのかどうかさえも、
分かりません。


もう、闇しかない
蓮花も、闇に染まり、
吸い込まれてゆきます。


「できることから、一つ一つ
やってゆけば良いのです」、とか
「いつか、みんなで、
生命の時代を迎える日が来る」、とか
「わたしは、わたしに
できることをする」、とか、
「世界のこんな悲惨さや落胆が
ずっと続くはずがない -- 
きっと、いつか、生まれてきた意味を
見出せる日が来る」、とか、
「例え、何が起ころうとも、
わたしはここで、苗木を植える」
と言っていた、時空間も、
闇の向こうに、
遥か遠ざかってゆきます。


何かしたくても、
何かしなくちゃと感じても、
何もできない自分(蓮花の生命)は
嫌だと想っても、
何かをするための手(花弁)も
からだ(花托)も失い、
もう、
この闇の世界を
ただ、観ていること以外、
できることを見つけられそうにありません。


この世界に寄り添っていても、
暴走する残酷さも暴力性も、
自他の荒廃と死滅も、
ただ、

観ているだけ

闇に呑み込まれそうになりながら、

観ているだけ

しかできないのです。



 …


… 待って!


-- 世界に寄り添っているんですよね?!

-- 観て、いるんですよね?!


観ているんです。
閉じたくても、
その目を閉じず、

何かできることがあれば
そうしたいのに、
愛しいものたちの悲惨を
観て、見守ることしか
できずに、
手を差し伸べることが
できずに、ただ、
観ているんです。


この世界の惨状を、

哭きながら
底のない絶望をしながら
悼みながら

観ている目(蓮)があるんです。



蓮花よ、蓮花よ、
清浄な花、
聖なる花よ


観えてくるものに
寄り添い続けよう。



 …


ハッとして、瞬間的に
ずっと手元にあったと気づいた
スイッチをパチンと押したら、
蓮花の精(ハート)に
豆電球ほどの、
薄暗い、光が灯りました。


光が灯った途端、
すぐ近くの闇がざわついて、
恐ろしい呻きと共に、
それまでよりも濃く、深くなりました。


光は弱く、
脆く、薄い蜂蜜色で、
頼りなく、温かでした。



闇を照らす小さな光
微かに発光する蓮花


外に求めずとも、
その灯があるからこそ、
何が起ころうとも、
どれほど闇が深かろうとも、
その、豆電球ほどの光なら
豆電球ほどの光だからこそ
最後まで
照らすことができます。



本当に、
何て暗いんでしょう … !

本当に
何て闇は深いんでしょう … !!



でも、
見誤ることもなく、
まなざしを穢すこともなく、
蓮の精(ハート)の光の照らし出す世界を
澄んだ目で、観て
そこに居ることだけは、できます。



そして …


見て!


わたし(蓮花)一輪だけじゃない!

小さな灯りをともして
闇の中で見えてこなかったものに
気付いた!!


この世界を
見守っている、
自らも焼かれながら
涙を流している、
蓮の花畑が
闇の向こうまで
続いていました。


静かに
見守り、
慈しむ
蓮の花畑が
続いていました。



この小さな灯りを
ともし続けましょう。
命尽きるまで、いえ、
闇に呑み込まれるまで、いえ、
この闇が、
終わるまで。





********
こんな瞑想は、初めてでした。

本当に深い、体験でした。

わたしがボロボロ哭いているのに気付いたメンバーの方は、やはり心配してくださっていたらしく、また、今宵の瞑想は他の方にとっても道場に光が入らないものだったようです。一緒に座ってくださっていた皆様、ご迷惑をおかけしました。こころより、お詫び申し上げます。それでも、この体験をさせて頂いて、感謝しようにもし尽くせません。ありがとうございました。


天の光、宇宙のエネルギーに頼ることもなく、ましてや他の方から -- 師匠から、何かを学ぶ、あるいは気付くきっかけを頂く、ことはあっても -- その光、エネルギーを頂くのではなく、まず、自ら(蓮花)のうち(エッセンス、ハート)に小さくても光を灯すことができるのだと、ようやくですが、気付けました。他に何ら光がなくても、それだけは、わたしの尊厳、いえ、存在に賭けて、どんなに小さい灯りでも、最後までともせるのです。



ましてや、わたしたちが縁を結んだ、愛しいものたちのために -- どんなに愛していたとしても -- それだけは、本当にその灯りだけは -- どれほどの惨状にあろうとも -- 担保されています。


本当は --

ほんの僅かでも、
少しでも、その愛を
形にできればいい、現実化できればいい、
そのために行動する
それしかない、
のですが、

それと並行して、

それでも失うことに
抗えないような、21世紀の現状において、
打ち砕かれたり、
穢されたりしないで、
あなたの愛や美しさを
貫き、
護ってほしいのです。
豆電球ほどの光でも --


わたし(蓮花)も
灯し続けますから、
蓮花ですから、
そして、あなた一輪も
蓮花ですから




(第二夜は、ゴメンナサイ!
                  
 途中、ショックや嫌な気持ちになられたら、
 申し訳なかったです。((時々、
 こういう話題には、そういうご感想を
 いただきます … ゴメン))

 この瞑想が終わった後、蓮花自身は、
 自分の絶望の淵を観切ったことで、
 かえってすっきりしました。

 そして、かえって強くなりました。

 「いつでも、豆電球のスイッチを押せる」
 ことが分かったから -- )









 

 




  




































































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蓮三夜  第一夜

lotus1


-- 蓮の花として、いま、ここに開く --


2011年の春、そう感じる一瞬がありました。

大震災の、少し前でした。

yogaの修練中、それがただ、蓮の花を象(かたど)って
型を結んだり、動いたりするのではなく、
蓮の花をイメージして、風を感じたり、
意識を透明にしていくのではなく、

本物の蓮の花として、開いてゆくこと、
ただ、在ることが、
ようやく訪れてくれたのでした。


蓮の花の動きを長年練習してきたからかもしれません。
聖なる花のイメージが繰り返し訪れてくれたから、
かもしれません。
大震災と絶望を、その後に迎えようとしていた、
から … かも … しれません。

ただ、でも …

それは、大自然との
生命の根源のエネルギーとの
samadhi (サマーディ 三昧)なのだと
修練の上での究極の境地なのだと


少しでも、蓮花となるべく、
日々を
ごく当たり前の詳細を
情けない煩悩の時間を
掴みどころのない不透明な修練の時間を
気晴らしや逃避やちょっとした有頂天を

そして、今益々深く
≪蜘蛛の糸≫さえ降りてこようもない、
真っ暗な闇の中を

蓮花となるべく、小さな
水晶羅針盤だけを
胸の奥にしまったまま、
日々を
送ってきたのでした。




そんなあるとき
遠くに水音が聴こえ、

「綺麗な蓮の花が開いていらっしゃいますね。
蓮の花と一体になる練習などなさらずとも、
すでに蓮の花として開いていらっしゃる。」

と、
湧き出る水音と野山に残る自然の語り部のように、
巫女のように、
言葉をかけていただきました。


そんな、
「綺麗」だなんて --
でも、
「綺麗な蓮の花」かどうかなんて、
疑うことなどせずに
花は、咲く運命に従い、
開いているものです。


振り返り、
ここまで来た瞬間、瞬間、
そして、≪いま≫≪ここ≫この瞬間が、
薫り高く開く、
蓮花でなかった、とも
一体、誰に言えるのでしょうか。


蓮の花は、
蓮の花に‘なろうとして’咲くのでも、
蓮の花‘だから’咲くのでもなく、
ただ、そのままに
自分の命を、自分の生を
自然のリズム、エネルギーのままに
おおらかに、かつ繊細に、
傷つくこと、いつか散りゆくこと、
土に還ることを知ることなく、
永遠に、また玉響(たまゆら)に、
開いているのです。


そのまま
ありのまま
蓮の花 …



それが腑に落ちたとき
小さな水晶のかけら同士が
カチンと響き合い立てる音のように

胸の奥底で鳴った
微かな音が
世界に、波紋のように
ゆっくりと響いてゆき

世界もまた
微かに、明るく
新しくなりました。


見渡してみると

一緒に、蓮の花の yoga を練習してくださる
ことりの会(井の頭)でも
同好会(水戸)・つくばでも
皆様の、一輪、一輪は
既に花開いていて

蓮の花と葉の
広大な海が
地上界だというのに

広がっていました。

薄桃色、青ざめたピンク、朱色、
鴇色、マゼンダ、クリイム色、
純白、白と紅、緑を帯びた陶器の白、
夢の色、虹の色、

瑞光蓮、妙蓮、紅重台蓮、
白万々、茶碗蓮
大賀蓮、
ブルー・ロータス





練習の空間だけでなく
これまでの世界は

笑いさざめきながら蕾開き
薫り高く花弁を広げ
静かに瞑想して花となる

聖空間の花のうみ …


蓮花の映る水の上でした。



*******

白蓮の花咲く天上界から
一本の細い蜘蛛の糸を垂らし、
カンダタをからかうという
正直、かなりいじわるな
短い夢をみたお釈迦様は

お目ざめになると、慌てて
慈悲と智慧に満ちたまなざしに戻り、
いつでも、想い出しさえすれば
蓮の花のからだとこころ
それが本来の姿であるということを、
その蓮の花をありのままに開くという
こと以外に、天上界などないのだと、
わたしたちにお諭しになるという
本業に勤しまれたのでした。





















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立秋を前に

今年は七月から真夏日和が訪れていましたが、やはり八月となると、トンボもセミも沢山飛び交って、bird sanctuary はすっかり夏に染まっています。

a&m2013Aug
 (apasくん=右、とmimirちゃん=左)

外の鳥さんたちも、家の鳥さんたちも、夏仕様です。朝夕の涼しい時は元気で、宵っ張りですが、昼間の暑さの中ではひたすら休んだり眠ったりしています。


ここのところ、研究関連のお仕事や旧職場の最後の仕事などが入り、すっかりご無沙汰をしてしまいました(よいアルバイトいただいて助かりましたが …)。皆様、お元気で、暑さに無理なさらず、気持ちよくお過ごしになっていらっしゃいますか。


sanctuary 創立の仕事は -- 鳥さんたちの活動と同じく、涼しい時間帯に合わせ -- 今は数日でジャングル状態となる草木と向き合い、草刈り、木の枝の選定、樹に絡みついてくるつる性植物の整理、etc.だけでいっぱいいっぱいの状況です。苗木が健やかに育つということも、植物同士の競合や、ゲリラ的に繁殖する外来植物とのバランスを考えると、簡単ではありません。


2013年3月20日ブログ(『shock --大地の悲喜こもごも--』)にて、植樹をしていきたい大地に埋まっているゴミのことをご報告させていただきました。確かめると、素人の手では負えないほどの大物(家の基礎としていたコンクリだったようです。家を壊す折、昔はそれを有料で撤去するなどということをせずに、そのまま土に埋めて、さらにその上に新たに家を建てる基礎を入れたりしていたらしいです)であったことが分かり、業者と掛け合って神奈川の気功の大先生・先輩方にご支援いただいてる bird sanctuary 基金によって撤去させていただきました。そして今、当初植える予定だったヤマウコギ等の苗木が根を下ろしています。


水回り等はまだまだ悪く、今、北側の池は恐ろしいどぶ池状態 -- めちゃくちゃ蚊が湧いて、30分外仕事をすると蚊柱ができて、かゆいを通り越して痛くなります。今は、オニヤンマやカエルなどが蚊の楽園となるのを食い止めてくれているけれど、この地が森に近づいていく頃には、池や排水についても、うまい方法を見つけて実行していかなければなりません。


そして -- 路の先に足を運ぼうとして、静かな田園にネットを通じて流れてくる、この最近の福島の原発事故現場の動き、放射能汚染の拡散、さらに鮫川村焼却炉の問題、隣接する茨城県でのがれき焼却や廃棄物のこと、選挙前後の社会の動き、人々の意識のさらなる変化、etc. etc. に、否が応でも直面せざるを得ないここ数週間でした。惑い、悩み、混乱し、2013年4月22日ブログで書いた『希望』に手を伸ばして絶望し(『「希望」というkey word』)、機会や啓示を与えられ、少しずつ整理し、ようやく自らのうちに小さな秩序を見出しかけています。


何よりも、残り少ない自分の時間と力で最大限できることは何なのか -- 動植物の異変に関して、少しずつ断片的に観察データも上がっていますが -- 今後の見通し(というか、見通しの効かない危機)について、どう構えてゆけば良いのか -- これまで小鳥を守るためにハンターさんや無意味な開発、さらには温暖化が与える影響に対して培ったてきた考え方はからきし通用しそうにないので、新たにできることを探っていく必要があります(ここに鳥さんたちがいて、育てる木々たちがいる限り、見捨てていくことはできない。でも、最悪のシナリオも覚悟しております)。そして、社会の方向性に関しても、予測していなかったほどの揺れを前に、小さな個人として、ほんの少しでも何ができるのか、いえ、「できる」なんておこがましいくらい小さいけれど、少なくともわたし個人が人間として恥ずかしくない姿勢で生きるために、何に抗い、何を問い、絶対に譲れないこと(それを譲らないためには他にエネルギーを費やせないほど譲りたくないこと)は何であるかを、精査し直す必要がありました。さらに -- 一番根幹にあると感じられること -- 今、ここの、わたしたち、ヒトの意識(その震災後の変化)に関して -- その「意識」にこそ、もしも未だにまだ僅かでも『希望』が見出せるとするならば、存在すると感じるので -- どういう向き、ベクトルで進んでいくことを望むのか、ヒトが他の生物と共存し自然と調和する路が開けていくと賭けることができるのか、確認し、草案を描いて、新たな一歩を踏み出しつつあります。



ヒトは、もしも脳の大きさ・緻密さが(脳の比重だけでなく緻密さで言って他の大型霊長類やクジラ目よりも緻密だとするならば)生物の中で最高であるならば、それを与えられて、どのように使ってゆくのでしょう? あるいは、≪進化≫という言葉が馴染むとするならば、この先どのように進化してゆくのでしょう? 地球に棲んで、どのような生きもの、命でありたいと望んでいるのでしょう? ヒトは、この上なく素晴らしい、美しい、生命の進化型なのでしょうか? それとも、チンパンジー(チンパンジーより「下等」とされる動物たちは、例えば生きるための「食」としての獲物を狩る以外の無意味な殺しはしない)より先、生命の輪からはみ出て最悪のシナリオ、生命を終焉させるという意味を担った‘生命であるまじき何者か’(悪魔?)なのでしょうか?




一方、長い月日、敬愛する方々との廻りあいの中で、生命としての、胸が打ち震えるような美しさ、気高さ、清廉さ、勇気、繊細さ、寛容さ、慈悲、愛を、ヒトのうちに、ヒトと触れ合う中で、感じ、受けとめ、与えていただいてきた気がします。小鳥たちは空を飛翔するだけで美しく無垢で、そこにいるだけで愛すべき存在だけれど -- ヒトのうちにも、美しさ、無垢さ、愛はあり -- しかも他者に共感し思いやる力もあれば、エゴを越え他の生命、未来の生命の連鎖を想像し、その豊かさ・深さ・繊細さを願って調和をもたらしてゆく知性や智慧もあるのだと想います。



20年ほど前、オランダに留学していた時、アムステルダム河沿いの素敵なフラットを借りていましたが、そのオーナーは英語学校にお勤めのコロンビア人の美女でした。民族の問題では非常に開けているオランダでありながら、職場で民族差別、オランダ人のボーイフレンドとは思想や価値観の違いでのトラブルも絶え間なく、傍から見ていても苦労をたくさん抱えていました。でも、底抜けに明るく、間借り人としては「ルーズすぎ!」という面もあるものの、楽しい方でした。どうして職場の同僚がそんな嫌なことを言っても、ボーイフレンドが理不尽でも、いつも素敵にお洒落な恰好をして、笑っているの、いつも sweet なの? と尋ねたことがあります。

その答えが -- (シンプルなんですが)

 Somebody got to be sweet!!
(誰か、優しい/感じ良い/楽しいヒトも必要でしょ?!)

でした。

チッポケでも、わたしも、sweetなヒトであることを穢さずに、暮らしていきたいと想います。そして、鳥たちの目線を忘れずに、彼らを裏切らずに、ずっと友達でいようと想います。彼らの‘聞こえない声’をもっと聴きたいし、わたしに残されているのは、そうした見えないものを観る調査(観察・分析)・研究能力なので、彼らの声を届けるココロアル研究を続け(再開?)しようと想っています。どんな時代になっても、どんな境遇でも、“ヒトと小さな小鳥とが再び真の友達となれれば、本当に何もかも大きく変わる。エコロジーですら、難しく声高に叫ばなくてもいい”という信念は、曲げないでいようと想います。



bird sanctuary の創立を目指したころのサンクチュアリと、3.11後のここは、もしまだ「聖地」を目指すとしても意味合いは大きく違ってしまいましたが(あの頃は、環境教育やら多くの方々の共感を呼ぶ地を目指していましたが、現況はそれを望むすべもありません)、それでも鳥たちがいる限り、わたしたちはそこがどこであれ「聖地」とすることを
目指せるのだと想います。たとえ、荒れ地でも、小さなお庭やベランダでも、わたしたちがどこを向くか、何と繋がってその場に立つかなのだと想います。











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