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hearing the unheard voices

小鳥たちと対話し、自然と人とが調和できるバード・サンクチュアリを創立しています。http://homepage2.nifty.com/birdsanctuary/index.html

蓮三夜  第三夜

(第三夜の下書きを書いたまま -- なかなか納得がゆかなくて、推敲して行きつ戻りつ -- 先週後半から東京に出ていました。いつものように東京・神奈川で yoga 、そして素晴らしいレッスン・修練に参加させていただいたのですが、その間、大切な方々との短い交流の中で、第二夜からUPできないで随分とご心配をおかけしてしまっていることに気づきました(>_<)

済みません!!


何だかとっても納得がゆかないのですが、嘘でもファンタジー仕立てでもなく蓮花の真髄のところから生まれるものは今はこれが限界です。最終夜に納得がゆかずとも、それはそれでそれがありのままの姿であり、また、処暑過ぎて bird sanctuary に戻ってみると、季節の色が移りエネルギーがシフトしているので、次に進むために恥を忍んでupします。

考えの足りない部分についてご教示頂ければ幸いです。)




whitelotus


-- きっとこれで終わりにはならない。


そう感じながら、夏を過ごしました。ここのところ、三つがセットになっていることや、三度という回数が節目になっていることが多く、yoga の蓮の動きも≪生誕≫≪開花≫≪還元≫と三つが区切りなので、なんとなくそう感じていたのかもしれません。あとひとたび、きっと蓮が物語をかたってくれる夜が訪れると。


でも、今夏に限って、どこかの大池や水生植物園等に「蓮を見に行こう!」というお誘いがありません。自分一人で出かけるには、仕事が詰まりすぎていて、機会がないままです。yoga や瞑想のときは、基本的に無心をこころがけなきゃ、なので、期待するのもなあ … と想いながら過ごしました。bird sanctuary でも、本当は蓮を育てる予定だったのですが、ジャングル状態の竹林と草木の管理に追われて、それどころではなくなりました。



そして、この物語で結末を迎えて良いのか、まだ分からないのですが …

八月に入り、つくばの会で yoga 、瞑想をしたときのことでした。

座りながら、再び自分が蓮の花となって咲いているのを感じていました。

今度は、瑞々しく、清浄な、うっとりするほど端正な姿の、白蓮でした。辺りは微かに芳しい香りがし、小さな白銀の鈴が幾千も鳴らされているような音が遠く響いています。

… でも、辺りは相変わらず、暗いのです。

あの時と同じ -- 天の光の差さないその場所の下には、どうしようもなく暗い大地がありました。干からびて、命の息絶えた、真っ暗な大地でした。


その大地のすぐ上に、白く柔らかい靄が広大な絨毯のように広がり、蓮花はその靄にくるまれて静かに開いていたのでした。

完璧なまでの美しさ、清浄さ、端麗さ … 白い靄が蓮花を護るように包んでくれています。そして、静かに、永遠のように、そこで花開いているのでした。



すぐ下の荒廃した大地は、遥か彼方まで続いているようです。その上に並行して、白い靄も遥か彼方まで伸びてゆきます。暗い闇とほのかに白銀色に煙るような光、黒い帯と白い帯 -- 地球を一周するのか、遠い宇宙の果てまでなのか、とにかくずっと先までその二つの層が続いていました。


蓮の花として静かに座ったまま、瞑想が終わりました。


・・・・・・・・


-- えっ? それだけ … ??


こころのどこかで、やっぱり別の物語を期待していたのかもしれません。夢の途中で目覚めてしまい、良い夢にしようと再び毛布をかぶってしまうときのように … 。例えば、再生の物語 …。例えば、わたしたちの意識を繋ぐ集合意識的な何ものかが、突然変異を起こして、あるいは、奇跡のヒロインが登場して -- ここまでの悲嘆が一気にリバースしていくような物語 …。蓮の花なので、蓮の花だからこそ、どこか奇跡の物語を創造したくなっていたのかもしれません。


なぜ、白蓮は、あんなところに開いていたのでしょう -- ? 腑に落ちません。
一体何をしていたのでしょう? 何を語ってくれていたのでしょうか … ??


正直、第三夜目というのに、うやむやですよね? がっかりしますよね? ゴメンナサイ、ワタシモ、ガックリデス(←  ○| ̄|_  !?!) 






… 「蓮の花は何があろうとも蓮の花」、「瞑想で浮かんだイメージを追うな」、「得たvisionを後から頭で解釈しても真実とは程遠い」 … なんですけれども … それは確かに、そうなんですけれども … 。


どうしても、人間は見かけた出来事の解釈や、浮かんだイメージの象徴を探りたくなってしまうもので、特にわたしは“頭でっかち”なので、以降では悔し紛れに、その後で解釈したことを書いてみようと思います。ブログでは久し振りに頭脳系で書くので、多分「クダラナイ(ヤヤコシイ)」と思います。きっと、ここまでで皆様が直観で感じ取られた答の方が、適切だと思います。



解釈は、六通り考えてみます。

(これは、以前「知識」に関する大学の授業を担当していて、それは学生の頃「『情報』とは何か」にとても興味があって、それを極めると、情報を体系化したものとしての「知識」について探りたくなって、そして知識が構築される過程について学位論文を書いた挙句、授業を担当することになった、といういきさつからでした。ところが、授業を担当する頃になると、「情報」を得るだけでは人が幸せにならないのと同じように、「知識」を獲得するだけでは人類は良い方向には向かえないのに気付いて、その先にあるものを探って -- 行きついた先が、というか、行きついていないのですが -- 学問上は(授業では)「価値体系」とか「現実観」とか「世界観」あたりが関わっていそう、と言いつつ -- 「ほんとはこれかもしれないねえ~」とお茶を濁しながら(学問的な「定義」が難しいし、授業でまっとうに扱うと「アヤシゲ」と言われそうな環境だったので)考えていたのが、「智慧」と「(原初的な)コミュニケーション」でした。その「智慧」を探っていて、読んだ文献として)

『知恵の三つ編み』(ポーラ・アンダーウッド 星川淳訳 徳間書店)の中で、北米先住民イロコイ族が伝承してきた智慧が、白人に分かりやすく伝えられています。

生命/人生(=いのち)を扱うとき、あまりにも多くの個別現象があらゆる瞬間に作用と相互作用を行っています。なので、何か一つの物事が、それだけで何か別の物事を引き起こすことなど到底ありえない、と彼らは考えます。

 「形をとったすべての現象について、
 その現象をきちんと説明できる説明を
 少なくとも六通り考えだすこと。説明は
 六〇通りあるかもしれないが、もし
 六通りでも考え出すことができれば、
 宇宙の複雑さと知覚の多様性に気がつく
 だろう。そうすれば、最初に思いついた
 もっともらしい説明を“真理”に祭り
 上げて、それにしがみつくことを妨げる
 にちがいない」    (p.221)

蓮花の開いた世界は、いのちの現象と言えるか分かりませんが、これに倣ってみます。


≪解釈その1≫

この瞑想の後、すぐ感じたのが、「これって、(芥川龍之介氏の『蜘蛛の糸』のように)天界と地界(地獄?)のイメージと思っちゃまずいよね」でした。解釈としてまずい、というよりは、「わたしは蓮の花。大地(現実/世界)がどんなに荒廃しようとも、ここで美しく咲く」という感じは、わたし(=蓮花)にはぴったりと来ない、ということでした。“現実厳しすぎるから、とりあえず今日はワイン飲んで映画見て寝ちゃえ~!”という逃避ならまだしも(わたし((=蓮花でないわたし??))はしますが)、「ここで美しく咲く」蓮花が、「どんなに荒廃しようとも、関係なく」とか「関係なく、わたしは美しいから」というのは、何か非常に違う、という気がしました。
 なので、天界/地界 version (現実逃避 version ?)は考えましたが、却下です。


≪解釈その2≫
 
次に思いついたのが、これは、闇のなか死に絶えている大地(=地球の物理的状況)とそれを包む白いオーラ(=地球の放つエネルギー層)の図なのではないか、ということでした。つまり、モノ(物理的なモノ)と、そのエネルギーを分け、モノが変化する際、現実に物理的に変化する前にエネルギー的な変化が現れる、ということかしらと思いました(実際に、多くの方が多様な領域でそういう考え方を表明されるのを見かけ、またそういう体験が語られています。例えば、病気の治癒など。)この光景は、物理的には生命の荒廃、死(=暗い闇の、黒い帯)という状況にありながら、地球は次の再生に向かっている段階のエネルギー(蓮の座る靄の、白い帯)に包まれている、というものかもしれません。
 しかし、これもまあ、潜在的な期待から解釈していることでしょう。
 実際、黒い帯と白い帯は、モノとそのエネルギー、という関係に見えませんでしたし、例えもしそうであっても、「ヒトが死滅に追いやった暗い大地が、白い靄に包まれ浄化されてゆく」的発想は、なんとなく「世界のすべてはいずれ光によって浄化され上昇するのだ」的考え方に近くて、それも … 違うかしら、という気がしました。


≪解釈その3≫

では、どう考えればいいのでしょう?
 この大地(黒)と靄(白)の関係性に鍵があるかもしれません。これはやっぱり、闇と光の象徴かしら …? とすると、≪2≫で考えていたようにどちらかがどちらかの付属物でなくて、二つがくっきりと分かれて対立している、黒と白、闇と光、荒廃と聖域、など、何かの対称的世界だったのでしょうか。
 蓮花にとって、今開いている世界が、二つのものをはっきりと分けて捉える、二項対立の世界だとすると -- 大地と靄が両極で、ずっと固定されていて、その対立がずっと続く世界だということになります。
 確かに蓮花(わたし)は、以前は、この世には美しい世界と醜い世界とがある、醜い世界に足をとられて被害者になってしまうのではなく、美しい世界の輝きを増す仕事がしたい、と想っていました。でも、この干からびて死んでいる暗い大地と、蓮花を包む白い靄は、対極ではなさそうです。それに、二項対立は西洋の代表的な思想の根底にありますが、個人的にあまり好きでなく、大地と対立する場所に蓮花が開くということは -- ありえません。やはりこれも、違うような気がします。


≪解釈その4≫

一方で、もし二項対立でなかったとしても、ここで白黒が非対称(=どちらか一極だけが圧倒的に強い)ではなく、対称的だというのは、まだ良いのかもしれません。何が圧倒的力を持つ非対称の世界よりは、二つのものが相補する世界の方が、まだ安心できる気がします。暗く死んだ大地だけでも、蓮の開く美しい白い靄だけでもなく、どちらも存在する世界の方がバランスが取れます。
 ただ、、、白い帯と黒い帯がどこまでもまじわらない平行線なのが、気になります。どちらからの働き掛けもないのでしょうか。並行線が交わったり、反転したり、ミックスしたりという変化がなく、大地は大地のまま、靄の上は靄の上のまま護られていて、蓮花は … 幸せなのでしょうか。白い靄が、大地の‘死’と関わり合わない、ということは、‘生命’とも関わりがない、ということだと想います。そのような花であるとは感じられないので、この version も違います。


≪解釈その5≫

… だいぶ、行き詰ってきました。

六通り解釈する、というのは難しいです。

暗い大地と白い靄を対象として考えるのはもう駄目そうなので、いっそのこと視点を転じてみたらどうでしょうか。
 大地と靄を観てきたのは誰ですか? 蓮の花でしょうか? その蓮の花が開く姿を観ているのは、誰でしょう? どこかに、すべてをじっと見続ける‘目’があるのではないでしょうか? 死んだ大地も、そこに広がる靄も、蓮の花が開花する姿も、ただ、観ている目があるということが、根本原理なのではないでしょうか … 

 観えていたものの答がそこに在る、何となく、そういう解釈も、ありそうと言えばありそうです。
 ただ、それはもうきっと“解脱の paradigm ”ですよね。そして、今は‘蓮の花が開く’ということの本質は、解脱の中にあるのではなく、“生命の paradigm ”の中にあると信じていたいと想います(≪その4≫あたりで、はっきりしてきました。)それに、‘目’が原理だとしても、なぜ今、その目がこの景色を見せられているか、の答はまだ出ていません。


≪その6≫

これで6通り目ですが、もうわたしはギブアップです。6通りの解釈の最後は、あなたの解釈です。
黒い帯と白い帯、荒廃した暗い大地の上の白い靄の中で開く蓮の花を、あなたはどう捉えられますか? 
どのように解釈すると、最もすっきりされますか?

最後の解釈を、開放系(まるなげ風?)にしておきます。



・・・・・・・

 (あらら、解釈を書く、と言いながら、6の前まで、書いた先から否定しちゃっていました。)



苦し紛れに書いてきましたが、途中、ひとつだけ閃いたことがありました。


今の、わたしにとっての「希望」の姿です。


3.11以前、わたしにとっての「希望」は、bird sanctuary 創立や小鳥とのコミュニケーションでした。たとえ、地球の中では砂粒ほどにもならない、1400坪ほどの土地でも、そこからのエネルギー、そこから意識が変わって行けば(波紋のように広がってゆければ、また、他の様々な動き・エネルギーと共鳴できれば)世界は変わる -- と信じられました。自然と人とが調和できる場所が少しずつでも広がっていけば、いつか地球という星自体が聖地となると想っていました。人の意識が変わるきっかけさえ生まれれば、奇跡が起こるということが、わたしの希望でした。小鳥と人がこころを通わせることができ、小さな小鳥が人を信頼するような世界が生まれれば、人の意識は大きく変わる、そしてそのことは世界が変わる大きな鍵となりえる --。そう信じて、進む!!

そこ頃までは、他の方々に(このブログでも)「希望はあります」と言えるわたしでした。

3.11後、そう言えなくなりました。「希望を見つける」ために、退職して原発事故地から100~110KMほどの bird sanctuary に棲み、それ以前に築こうとしてきたことの意味を再考し、「汚染」について勉強し、直観したことも含めあれこれをやってみました(それ以前は、こころないハンターさんや無意味な開発に対抗する手立てが頭にありましたが、汚染に関しては全く不勉強でした)。そして、失速気味だった小鳥とのコミュニケーションの研究の再開に七転び八起きして -- 様々な方々から教わり、色んな考えやその奥にある意識を感じ、「(新たな)希望はあります」とはまだ言えません。

どうすればよいか、まだ分かりません。



今は、以前のように「希望はある」とは言えません。
新しい形の希望についても、まだ見つけられていません。

一方、では「もう絶望するしかない」とも言えません。
多分、わたしが生きている限り、わたしはそう言わないでしょう。



いっこうに交わってくれない、相互作用してくれない、白い帯と黒い帯 -- 。
ごちゃごちゃ解釈してみても、簡単に答の出ない、白蓮の咲く光景 -- 。


もしかすると、今、ここで、希望はあるのかもしれないし、ないのかもしれない、ということなのかもしれません。あるのかないのか、そのどちらかを‘信じる’というのならまだしも、‘言い切ってしまう’ことは、この時代、もはや傲慢であるのではないかと感じられてしまいます。



なぜ、希望にこだわるかと言うと -- 希望があると信じられれば、向かう道が観え、少しずつでも努力して進むことができ、エネルギーや勇気が沸いてくる、いろんな共鳴や共振も生まれるし、それらが全て希望の方向の糧となっていくからだと想います。それは、そうなのです。

それでは、なぜ絶望の淵を観せられるのかというと -- 。

「希望」の鍵は、人々の意識の中にあります。これまでも、確信してきましたし、今も、そうです。

環境・自然・命を大切にしようとする人々は、これまでも、今も、どんな場であろうとも少数でも存在していました。そして、そういう方々の意識が繋がり、波紋のように広がり、深まり、現実を変えていくことが可能だと信じていました。ですが今、環境・自然・命を大切にしようという方々が、(数的には増えていると思いますが)方向や価値観、焦点や拠り所とする立場・考え方・人のネットワークを分散させられ、互いに衝突したり失速させられる方向に陥ってしまっています。しかも、その状況に打ち勝てないようなメカニズムがますます膠着しています。社会を変えるのか自分から変えるのか、まず何から大切にするか・守るか、何を信頼するのか、等、混沌のまま価値や言説が分裂してしまっています。何を見て行動するのか、どの種の「周囲の人」にどの程度同調するのか、どの社会活動にどの程度参加するのか、どの立場がいいのか悪いのか、複雑な相関関係を持つ環境のどの部分に向いた考えを採択するのか、すべてを撹拌し誘導的な情報源のどれにどの程度依拠するのか、違う立場の人を支えるのか攻撃するのか憎むのか無視するのか、自分自身でどれだけ自立する覚悟があるのか、等も以前よりも格段にバラバラとなってしまいました。
 要するに、命や自然や環境を大切にしようとする方々が(それでも未だ数は少数・微力なのに)、対立したり憎みあったり相互に受け入れなくなってしまう度合いが以前より強くなってしまいました。大切だと感ずるものが一致できたかもしれない少人数が、混乱の上、多く相殺し合ってしまうように見受けます。

(この種の対立は、以前も、例えば自然保護団体と動物愛護団体、‘自然を管理する(=現状の科学志向の)’型の保護団体と‘自然を敬う(ヒューマニズム志向の)’型の保護団体、温暖化防止なのか反核なのか、等で見かけました。また、‘命’や‘自然’をどう捉えるのか、自然観や世界観の相違によって、これらを護ろうとする立場同志が足を引っ張り合うこともありました。)

より多くの人が、環境や自然や命こそが最も大切、と気づき、傍観するだけでなく急務として行動する必要がある、と深く理解した矢先、この混乱が意図的に起こされたと想います。簡単な誤解・立場の違いではなく、価値観・世界観・生命観・互いの大切にするものや愛するものを護るために依拠するものやそのソースの違いが巻き込まれているために、整理できる状況にありません。しかも論理の違いでなく、感情が関わり生き方が丸ごと違うことになったため、修復不能です。


混乱と対立から、わたしたちの不安・疲弊・消耗も大きく、互いのコミュニケーションが閉鎖系になることも進んでいます。挫折感を感じたときに、簡単に逃げ込める娯楽や言い逃れの場所は実に魅力的になっています(身を以て感じます … 汗)。


圧倒的な闇と言える、混迷の時代に突入してしまいました。



でも、「絶望」しかないのかと言うと --

わたしは、(いつかのブログで書いた、最後の切り札を出しますね^^)


 -- でも、「愛はある!」 --


愛は消えてない、ことを想い出すのです。

環境や自然や命を護りたい、という想いの中に、各々の対象や範囲や質は違いこそすれ、愛は揺るぎなくあります。


愛は、ありますよね。
消えていませんよね。



ここのところの混乱の中、少なくとも周囲を見渡す限り、身近な命に対して愛をしっかりと注いでいらっしゃる方ほど、少なくとも生きる視点を失われてはいない気がします。


混乱のことを書いたときに、じゃあどうして整理しないのか、整理して新たな秩序を生み出して行動すればいいじゃないか、と言われるかもしれないと思ったのですが、そのようにして解決できる混乱・混迷ではないような気がするのです。

(先に「情報」の研究をしてきたり「知識」についての授業を担当した過去を書きましたが)どういう考え方が合理的 / 効果的だとか、どのような立場にはどんなメリット・デメリットがあるということを整理しても、答は出ないのではないでしょうか。この閉塞を打ち破るためには、新たな「情報」を得たり「知識」を身に付けたり、誰かの論理力や統率力を借りるのではなく、もっと新しい知性を身に付ける必要性を想像してみるのです。


 真に大切なことを見抜く力

 自分の属する集団や自分の立場・世界観を越えて
 別の集団や立場や世界の在り方を想像すること
 全然違う「今」を生きる人や生きものたちの
 身になって想像する力

 そして、全然違うその命に共感できること
 それが難しくても、今自分が共感できる他者の
 範囲を少しでも広げてみる力

 周囲の何かからの怖れから逃れ出て
 真に自分の足で立つこと
 自分自身を知る力
 感じる力、考える力

 命を感じる力
 生きていることをリアルに感じる力
 自他の生の有限性や死を受けとめる力


 諦めないで逃げないで
 自分のために自分で前に進む力

 智慧と慈悲

 など??


まとめていいのか、どう呼んでいいのか、整理のつかないままですが、立ち止まるのでも絶望するのでもなく、今はこうしたことに関わる知性を磨いてゆこうと想います。うまく書けませんが、ヒトの命としてのからだが知っているはずの‘身体知’や、感じつつ必要な行動をしていくための神経網としての脳にある自力で感じ/考える力や、原初からわたしたちの意識に眠っている、多様な他者や自然環境と繋がったり共振したりする力などに、少し関わっているかなと思います。絶望的な状況からの脱出が可能かどうかは分かりませんが、ともかくも、今後こうした知性を愛と共に携えてゆく必要を感じます。

(もしかすると、わたしが感じているような絶望は、もう過去にたくさんの先輩方が乗り越えたものかもしれない -- 知性も愛もなければ乗り越えられなかっただろう -- そして乗り越えた後は、野辺に咲く小さな花を見つけた少女のように、初めて命<花>を護りたいと感じたときそのままに、感じ行動してゆきたいです。)



きっと、まだ、世界の行く末は、オープンです。


身近なレベルの小さな希望(愛)から始めて、新たな知性を磨き、小さなレベルだけど大きなレベルと繋がっていくような希望を、みつけましょうか。




第三夜目の瞑想の後で、メンバーの方々とお茶を頂きました。第二夜に書いた瞑想でご心配をおかけしてしまったメンバーの方(=人間業と思えない位、場所や他者から感じ取る感覚が鋭敏な方)が、一言、感想をおっしゃっていました。

 「今度は、『大丈夫』、という感じだった。」

 「大丈夫? 何が大丈夫だったの?」

 「いや -- わからない --。
 でもとにかく、

 ダイジョウブ! 

 ミンナ、ダイジョウブ!!
 (両手を床に広げるしぐさ)

 という感じだった。」



-- これが多分、白い靄の上に咲く白蓮の花です。
そして暗く荒廃した大地の未来です。


白い靄の上で健やかに開いてみよう。


白い帯と黒い帯の平行線が続く宇宙の果てには、きっと素晴らしいことが待っているに違いありません。














  















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